ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
Piano Concerto No. 3 in D minor, Op. 30(1909)
主調の地図:ニ短調に発し、間奏曲が調号♯3(イ長調/嬰ヘ短調)と変ニ長調のあいだを漂い、終楽章が練習番号 [73] でニ長調に届いてそのまま閉じる。
出典・底本
主な分析ソース:Gary Woodrow Cobb(Texas Tech University, MM 1975・全3楽章の逐次分析)/한나래 Han Narae(ソウル大学校大学院, MM 2020・第1楽章の区分表と調)/Varazdat Khachatryan(Technological University Dublin, PhD 2021, DOI 10.21427/RV1F-QB86)/Yuanpu Chiao(King's College London, PhD 2012・カデンツァ選択と自演のカット)/Gulrukh Shakirova(Indiana University, D.Mus. 2022)/Scott Davie(Structure and Contour in Melodies of S. Rachmaninoff, University of Sydney, PhD 2009・主題の輪郭分析)。位置の準拠:小節番号と練習番号の2本立て。底本は A. Gutheil 初版フルスコア(Moscow, 1910・版番号 A. 9086 G.・Breitkopf & Härtel 彫版)(IMSLP #248685、136頁)。この版は小節番号を印刷していない——刷ってあるのは四角囲みの練習番号と頁番号だけで、練習番号は [1]–[79] が全曲を通して振られ、楽章が変わっても 1 に戻らない(本ガイドが136頁を通して確認)。したがって表の小節番号は分析文献の数え方であって版面の数字ではなく、練習番号のほうが手元のスコアで直接引ける座標になる。両者の対応は、本ガイドが初版と Gutheil 2台ピアノ版(版番号 A. 9088 G.・IMSLP #105599)の全システムの小節を数えて算出した。
その対応は一様に確かではない。第1楽章のカデンツァ突入 m.303 は Khachatryan と Han の独立した記述と一致し、第3楽章の [59]=m.243 は Cobb と一致する。一方、本ガイドの2度の計数は第1楽章の [3] で食い違い(m.56 と m.61)、第2楽章の [37] は Cobb の m.190 に対し計数 194、第3楽章の [54] は Cobb の m.201 に対し計数 206 だった。[54] は Cobb の m.201 を採った——同じ13小節という数字を挙げる資料(Rolf Kyburz)が他にあるが、その媒体を特定できていないので独立の裏づけとしては数えない。採用の根拠は、Cobb がこの楽章を小節単位で通して追った唯一の資料であり、本ガイドの計数はまさにこの区間(3/2 と 4/4 が交替する総譜 p.93–98)を低確度と自己申告しているから。ずれは解消していない。他のずれは本文の該当行に併記した(第1楽章 [3] は m.56 と m.61 で本ガイドの2度の計数が割れており、どちらも採らずに区分の位置は Cobb 側の小節に置いた)。
第1楽章の小節番号は ossia(大きい方)のカデンツァを弾いた場合の番号。短い方を弾くと m.303 以降が16小節ずれる(ossia 454小節/original 438小節——Han 2020 p.8 註10 が明文で記し、Shakirova 2022 の「ossia は16小節長い」と独立に一致する)。表では括弧内に original 番号を添えた。
参照録音:ボリス・ギルトブルグ(pf)/カルロス・ミゲル・プリエト指揮 ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(Naxos 8.573630、2016年2月27–29日 グラスゴー Royal Concert Hall 録音・&℗ 2018)。レーベルが公表する楽章別時間は 17:39/11:09/14:46。カットの有無をレーベルは記していない——第3楽章の 14:46 は公認カット2箇所(計42小節)を入れていない演奏と整合するが、それは本ガイドの推論であってレーベル側の言明ではない。区分ごとの時間目安(≈mm:ss)は付けていない——この曲の区分に紐づけて経過時間を示した公開資料が見当たらず、本ガイドでも計測していないので、推測の時間は書かない。使ったのは調性スパインの幅を楽章時間に比例させることだけ。作曲者自演(オーマンディ指揮フィラデルフィア管、1939–40)は5箇所のカットを含むので、長さの基準には使っていない。
総小節数:第1楽章は上記のとおり文献の明記による。第2楽章の約218小節と第3楽章の約508小節は文献に数字がなく、本ガイドの計数である。第3楽章は Cobb の m.243(=[59])を起点に終止まで数えた値が、tonic-chord.com(無署名の解説サイト。Cobb からの派生とみられる)の「507–508小節で終わる」と一致するが、第2楽章は単一経路の計数なので±5 ほどの幅を見込んでほしい。
初版の扉は作品名を
3ème Concerto. と仏語で刷り、献辞 À Mr. Joseph Hofmann. と S. Rachmaninow, Op. 30. を添える(本ガイド実測)。本ガイドの副題に英語表記を採ったのは既存ガイドの慣行に合わせたためで、底本の字面ではない。この稿がしていないこと。Barrie Martyn の Rachmaninoff: Composer, Pianist, Conductor(自筆譜の来歴と自演のカット表という、下の記述の根本典拠)と Joseph Yasser の原論文は入手できておらず、いずれも学位論文を通した間接参照にとどまる。Henle の原典版(HN 1452, 2023)は大英図書館蔵の自筆総譜を「今回初めて」照合したと述べるが、その校訂報告も未見。本ガイドが「スコアにこう刷ってある」と言うのは1910年の初版の字面のことで、校訂上どう決着したかは別の話である。
全3楽章の俯瞰
| 楽章 | 形式 | 主調 | 拍子 | 形式上の変型 | 聴きどころ |
|---|---|---|---|---|---|
| I. Allegro ma non tanto | ソナタ形式 | ニ短調 | C を基本に 2/4・3/2 を挟み、m.235 から ¢ | カデンツァが2稿あり、長さが16小節違う。再現部は提示部の半分以下に圧縮される | 2小節の前置きのあと、ピアノが両手オクターヴのユニゾンで、伴奏和音をひとつも持たずに主題を歌い出します。この曲でいちばん名の知れた楽章が、いちばん素っ気ない始まり方をするところ。カデンツァの後、フルート・オーボエ・クラリネット・ホルンが順に出てくる短い場面が、独奏者にとってはようやく息のつける谷間です。 |
| II. Intermezzo: Adagio | 間奏曲(A–B–A–C–A の額縁) | 調号♯3 ⇄ 変ニ長調 | 3/4(中間部は 3/8) | 変奏の技法で書かれるが変奏曲とは呼ばれない。第1楽章の主題が2度侵入し、終わりは第3楽章へ直結する | オーボエが息の長い旋律を出し、ピアノは31小節待たされてから割り込んできます。中ほどでいきなり 3/8 の速いワルツになり、そのワルツの旋律が実は第1楽章の主題の変形だと分かる——というのが仕掛けの中心。最後は静かに終わらずに、ピアノの走句と総奏の一撃で終楽章へなだれ込みます。 |
| III. Finale: Alla breve | ソナタ形式(自由) | ニ短調 → ニ長調 | ¢(挿入部で 4/4 と 3/2 が交替、コーダは 6/4) | 通常の展開部の位置に、変ホ長調の長大な挿入部が置かれる。再現部はニ短調ではなく変ホ長調で始まる | 前半は舞曲のような推進力で押していきますが、途中でテンポも拍子も調も遠くへ逸れ、変ホ長調の「Scherzando」に入ります。ここで第1楽章の主題がヴィオラとチェロに戻ってくる箇所が全曲の要。ニ長調に届くのは終わり近く、短いカデンツァの直前です。そこから先は調号が変わらないまま、一気に閉じます。 |
楽章をまたぐ仕掛け:第1楽章の第1主題が全曲を縦に貫きます。第2楽章では m.72 の第1ヴァイオリン(リズムの変形)と m.137 のクラリネット・ファゴット(3/8 のワルツに化けた形)に現れ、第3楽章では m.132 のオーケストラ、m.201 のヴィオラとチェロ、そしてコーダ冒頭 m.381 に戻ってきます。第1楽章の第2主題も終楽章で二度おいしく使われ、m.209 の Lento(ホ長調のカンタービレ)を経て、m.438 のニ長調の大主題として凱旋します。第2楽章から第3楽章は
attacca subito で切れ目なく続きます。主題・動機の凡例
P1 — 第1楽章 第1主題
ニ短調。ピアノが両手オクターヴのユニゾンで提示する。全曲を通じて回帰する循環主題。
S1 — 第1楽章 第2主題
変ロ長調で現れ、カンタービレの姿と行進曲風の姿を持つ。終楽章のニ長調の大主題はこれに基づく。
R — 付点リズム動機
第1楽章の最初の2小節。Cobb はこれを協奏曲全体を貫くリズムと見る。
T2 — 第2楽章の主題
オーボエが提示する「ため息のような」旋律。第1楽章とは別系統の主題で、A 部の変奏の母胎になる。
P3 — 第3楽章 第1主題(通底リズム)
序奏2小節が出す推進リズムと、その上に立つ舞曲風の主題。終楽章の大半がこれに基づく。
S3 — 第3楽章 第2主題
ハ長調の 1部とト長調の 2部。2部はラフマニノフ自身が容認したカットの対象。
I. Allegro ma non tanto
ソナタ形式提示部
1–166
1–166
展開部
167–302
167–302
カデンツァ
303–377
303–377
合流
378–410
378–410
再現部
411–436
411–436
コーダ
437–454
437–454
幅は小節数に比例(ossia 番号)。カデンツァが楽章の6分の1を占め、再現部は提示部の6分の1しかない。
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| 導入 | m.1–2総譜 p.3 | ニ短調 | C | 弱音器付きの弦が刻み、クラリネット・ファゴット・ホルンが下がる線を置き、ティンパニが pp で脈を打つ。R 付点リズム動機。この2小節は前奏ではなく、全曲の脈拍そのもの。→聴取:ティンパニの弱いリズムだけを覚えておくと、終楽章でそれが主役になるのが分かります。 |
| 第1主題群 | m.3–51[1]=m.11 | ニ短調 | C(m.25 のみ 2/4) | ピアノが両手オクターヴのユニゾンで P1 を提示する。伴奏和音は一切ない。m.26初版に Più mosso.、続いて役割が反転しヴィオラとホルンが旋律を引き取る。協奏曲の第1主題が、和音の支えなしに素の単旋律で出てくる。→聴取:両手が1オクターヴのユニゾンで、和音の支えを持たないので、音は細く、輪郭だけがくっきり残ります。 |
| 移行 | m.52–92[2]–[4] | d–A–d(Han)/転調的(Cobb) | C | m.52初版に Più vivo.m.69 Allegro.(=[4])。フルート・オーボエ・独奏ホルン・トランペットが S1 の断片を先取りする。m.77小節線のないピアノ独奏( veloce)。m.81 Moderato. ファゴットと低弦に P1。ここで第2主題が予告されるので、本番の m.93 が再会に聞こえる。→聴取:木管の短い呼びかけが、40小節後にピアノで大きく開きます。 |
| 第2主題群 | m.93–150[5]–[9] | 変ロ長調(内部に 変ホ長調) | C | 初版が調号を 1♭ から 2♭ へ変えるのは [5] の約6小節後で、第2主題群の頭ではない(本ガイド実測)。S1 は行進曲寄りの姿(Robinson「やや軍隊的」)と、m.107のピアノによるカンタービレの姿を持ち、m.111で独奏ファゴットが対旋律を添える。内部分割は資料で割れる第2主題と一括りにできない、複数の顔を持つ一群。異同:Cobb=93/107/124 の3部、Van Eeden=93–105/106–123/124–150、Han=93–106(B♭)/107–150(E♭→B♭)の2部、Khachatryan=5分割。→聴取:どこで切れるかより、変ロ長調が一度変ホ長調へ傾いて戻ってくる呼吸を追うほうが耳に入ります。 |
| 終結群 | m.151–166[10]・[11] | 変ロ長調 | C | 初版に Tempo precedente.(本ガイド実測で m.151 と一致)。ピアノが S1 のカンタービレ版を歌い、m.159 から速い後半に移る。ラフマニノフ自演盤はこの区分の頭から8小節を切っている(m.151–158)。→聴取:提示部がいちばん明るく、いちばん歌う場所。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| 第1段 | m.167–180総譜 p.21 | ニ短調 | C | 初版が Tempo I. を刷り、同時に調号を取り消す(以後 p.35 まで無調号・臨時記号のみ。本ガイド実測)。調号が消えることが、展開部の始まりの合図になっている。→聴取:ここから先、耳がどの調にいるか掴みにくくなるのは設計どおりです。 |
| 第2段 | m.181–202[12]=m.181 | ヘ長調 | 3/2 ⇄ C | 初版は [12] の小節で複縦線とともに Più mosso. と 3/2 を刷り、3小節後に C へ戻る(以後この区間で 3/2 と C が交替。本ガイド実測)。ファゴットとチェロに P1 の断片。m.189 が 181–188 の反復進行、m.199–202 が延長。→聴取:低音の木管と弦が主題を口ずさむ下で、ピアノが細かい音型を織り続けます。 |
| 第3段 | m.203–222[13]・[14] | イ短調 | C | —→聴取:短調へ戻り、密度が上がります。 |
| 第4段 | m.223–234総譜 p.27 | 変ホ短調 | C | 主調から最も遠いあたり。ニ短調から見て変ホ短調は半音上——最も居心地の悪い場所。→聴取:ここが展開部の底です。 |
| 第5段 | m.235–302[15]–[18] | イ短調 | ¢ | 初版が Alla breve. Allegro molto. を刷り、拍子が変わる(本ガイド実測)。[18](m.290)に poco a poco ritenuto。68小節にわたる長い加速が、そのままカデンツァの助走になる。→聴取:属調のイ短調に居座り続けることで、ニ短調への解決が引き延ばされます。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| カデンツァ | m.303–377original 303–361/総譜 p.36–38 | ニ短調 | — | 直前の小節に初版が Allegro molto. と Cadenza Piano をフェルマータ付きで刷る。本文=軽いトッカータ風の稿、その上の縮小譜表=和音主体の Ossia(本ガイド実測。ossia は p.38 で etc. と記されて打ち切られる)。長さは ossia 75小節/短い方 59小節、末尾は共通(Chiao 2012)。ossia と刷られている大きい方が、実は先に書かれた稿である。→聴取:どちらを弾いているかは冒頭数秒で分かります——厚い和音の連打なら ossia、軽い分散和音なら本文の稿。 |
| 木管ソロ(Meno mosso) | m.378–390[19]/original 362–374 | ト短調 | C | 2つのカデンツァはここで合流する。フルート・オーボエ・クラリネット・ホルンが順に Solo で P1 を回想し、ピアノが分散和音で下から支える。楽章でいちばん静かで、いちばん美しい13小節。→聴取:4つの木管が同じ旋律を順に渡していくので、音色の違いだけが変わっていきます。 |
| Moderato | m.391–410original 375–394/総譜 p.40 | 変ホ長調 | C(3/4 を挟む) | 初版の調号が 3♭ になる(本ガイド実測)。ピアノ独奏が S1 を変ホ長調で静かに展開し、dirigieren(指揮せよ)の指示で管弦楽が戻る。→聴取:カデンツァの続きのように聞こえますが、鳴っているのは第2主題です。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| 再現部 | m.411–436[21]・[22]/original 395–420 | ニ短調 | C | 初版に Tempo I.、調号が 1♭ へ戻る(本ガイド実測)。提示部51小節 → 再現部26小節本ガイドの実測では主題を出すのは p のクラリネットとファゴット(unis. con sord. の弦の上。pp が付くのはホルンと、2小節後の弦)。英語版 Wikipedia は「ピアノが再提示する」とするが、Khachatryan は 411–412 を管弦楽、413 以降を独奏と細分しており、ここは両論のまま残す。再現部が提示部の半分しかない——戻ってきたというより、通り過ぎる。提示部で変ロ長調だった第2主題は、ここから先主調ニ短調へ移されてコーダに現れる(Cobb)。→聴取:移行部にあたる区分がまるごと無く、第2主題までが一気です。 |
| コーダ | m.437–454[23]/original 421–438 | ニ短調 | C | 18小節。S1 に基づき、ホルンとトランペットがその断片を出す。初版に poco accelerando al Fine。最後はホルン pp・ティンパニ pp・弦 ppp と細り、チェロとコントラバスのピッツィカートで閉じる(本ガイド実測)。これだけ長い楽章が、消え入るように終わる。→聴取:拍手が起きにくい終わり方で、それは書かれたとおりです。 |
提示部
第1主題群=ニ短調(51小節)、第2主題群=変ロ長調(58小節)。主調の VI 度へ開く。再現部+コーダ
第1主題群=ニ短調(26小節)、第2主題は主調ニ短調へ移されてコーダに現れる(18小節)。対比の軸は調性。第2主題が変ロ長調から主調へ移ることで古典的な解決は果たされるが、その解決に与えられた尺は提示部の半分以下(109小節 → 44小節、約4割)で、しかも提示部にあった移行部にあたる区分が再現部には無い。Cobb はコーダを第2主題に基づくものとする。再現部の短さを「省略」ではなく、カデンツァで力を出し切った後の帰結として読むのが、この楽章の設計にいちばん合う。
主要主題
| 主題 | 音の動き | 担当 | リズム・性格 |
|---|---|---|---|
| P1(第1主題) | m.3 から D5 – F5 – E5 – D5、続いて C♯5 – D5 – E5 … と、主音 D のまわりを3度の幅で旋回しながら戻る。この音名列は本ガイドが初版の版面から採ったもので、分析文献が音名を挙げているわけではない(文献が述べるのは輪郭のみ——Robinson「D で始まり、その周囲を旋回する」、Keldysh「3度の細胞をリズムを変えて反復する」)。 | ピアノ(両手のオクターヴ・ユニゾン。上下段とも ト音記号で、間隔は1オクターヴ)。伴奏和音なし | 4分音符と8分音符だけの平坦なリズム。p・commodo。主題の長さは資料で割れる(Robinson 25小節/Shakirova 24小節/Davie は m.1–27) |
| S1(第2主題) | 変ロ長調。行進曲寄りの姿で出たのち、m.107 のピアノで幅の広いカンタービレに開く。音名列を挙げた資料は見つからなかった。本ガイドも実測していない——第1楽章は総譜 p.12 に小節線のない楽節があり、m.93 や m.107 を版面上で一意に決められないため(他の2主題は楽章冒頭なので実測できた)。 | 提示は管弦楽と独奏の受け渡し、m.111 に独奏ファゴットの対旋律 | Robinson は「やや軍隊的」と呼ぶ。終楽章のニ長調の大主題はこの主題のカンタービレ版に基づく |
| R(付点リズム動機) | 下行する短い線に付点のリズムが乗る。 | クラリネット・ファゴット・ホルン・ティンパニ・弱音器付き弦 | Cobb はこれを協奏曲全体を貫くリズムとし、終楽章の通底リズムと結ぶ |
特異点
- カデンツァが2稿あり、Ossia と刷られている方が先に書かれた。大英図書館蔵の自筆総譜の頁付けから、和音主体の長い稿(75小節)が最初の選択で、軽い稿(59小節)が後だと分かる(Martyn 経由で Chiao 2012・Khachatryan 2021 が一致)。Norris は「78回転盤に収める必要が短い方を選ばせたのだろう、あるいは他所で十分に力を出したので軽さで対比を付けたかったのかもしれない」と書く。ラフマニノフ自身は短い方を弾き、録音でもそうした。1958年のチャイコフスキー・コンクールでヴァン・クライバーンが弾いて以後、ソ連の若手はほぼ全員が大きい方を選ぶようになった——ただし Chiao 自身が「この影響には地理的な限界があり、ソ連の外では、クライバーンの母国アメリカでさえ同じようには働かなかった」と限定している(Chiao 2012。Khachatryan は競技会の年を1968年とするが、クライバーンの優勝は1958年で史実として確定しており、こちらは誤記とみられる)。ホロヴィッツは短い方を「オリジナル」と呼んでおり(BMG 盤ブックレット所収の John Pfeiffer によるインタヴュー。Chiao 2012 経由)、原型という語の使い方自体が資料によって逆になる。
- 初版は2つの稿を上下に並べて刷り、途中で片方を打ち切る。総譜 p.36 で本文の上に
Ossiaの縮小譜表が現れ、p.37–38 は4段(本文2段+ossia 2段)で並走し、p.38 の途中にetc.と書いて ossia の側だけが消える(本ガイド実測)。 - 第1主題の由来をめぐる論争。Joseph Yasser はキエフ洞窟大修道院の聖歌を原型とする説を立てた(The Musical Quarterly LV/3, 1969)。ただし説の発見は1935年で、Yasser 自身が「学問的客観性のため発見を早々に伝えることは差し控えた」と回想している(1946年のロシア語回想。senar.ru 所収のテキストによる)——つまりラフマニノフは何を見つけられたか知らされないまま答えており、「作曲者が即座にこの説を退けた」と書く解説は誤り(公刊は没後26年)。作曲者は1935年4月30日の Yasser 宛書簡で(Литературное наследие 3:49。本ガイドは Cobb 1975 p.67 註156 の逐語引用を通して参照)「第3協奏曲の第1主題は民謡形式からも教会の源からも借りていない。ただひとりでに書けたのだ。ピアノで旋律を歌わせたかった…もしそうであったなら、私は意識的に旋法を保ち、C♯ を入れず C ナチュラルのままにしただろう」と述べ、同時に「この主題は意図せずして民謡風・儀礼風の性格を帯びてしまった」とも認めている。反駁として実質のあるものは、本ガイドが確認できた範囲では Davie 2009 だけ——Yasser は主題全体との比較を示さず断片同士の照合にとどまる、クライマックスの B♭ を説明しない、傍証に挙げるラフマニノフの典礼音楽研究は協奏曲の完成より後(Op.31 の準備)である、の3点。民謡説のほうは、具体的な曲名を挙げた資料が英語・ロシア語のどちらにも見当たらない。
- カデンツァが再現部を代替しているという読みもある。Ledbetter(Aspen)は「通常の再現部の位置を巨大な独奏カデンツァが占めている」と書く。学位論文群(Cobb・Han・Khachatryan)は m.411 からを再現部として立てるので、ここは両論併記にとどめる。
- ラフマニノフ自演盤(1939–40)はこの楽章で2箇所を切っている。[10] の3小節後から [11] まで(8小節)と、[19] の9・10小節前(2小節)。Chiao 2012 の表(練習番号)と Khachatryan の小節番号(151–158/352–353)が別々の単位で対応する。Chiao は「78回転盤の収録時間のためという説明は苦しい——第10面が空白のままなのだから、あと4分は録れたはずだ」と指摘する。
II. Intermezzo: Adagio
間奏曲(A–B–A–C–A の額縁)A(主題と変奏1・2)
1–70
1–70
B
71–84
71–84
A(変奏3–5)
85–129
85–129
C(3/8 のワルツ)
130–183
130–183
A′
184–209
184–209
終楽章へ
210–
210–
幅は小節数に比例(Cobb の番号)。A が3度戻る額縁で、B と C に第1楽章の素材が侵入する。
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| A① 主題提示 | m.1–25[24]=m.10/総譜 p.46 | 調号♯3(イ長調/嬰ヘ短調) | 3/4 | 弦と木管だけ。オーボエが T2 を出す。調の呼び名が資料で割れる楽譜の調号はイ長調だが、鳴り出しは前楽章のニ短調をまだ引きずっている。異同:Cobb「ニ短調に始まりニ短調に終わる」/Ledbetter「イ長調に始まり変ニ調へ」/Fanning「前楽章からの和声的隔たりを橋渡しして始まる」。→聴取:どの調と呼ぶかで揉めるくらい、始まりの足場が定まっていません。 |
| 移行 | m.26–37[25]=m.26 | 調号♯3 | 3/4 | Un poco più mosso. オーケストラのみ。m.32Più mosso. でピアノがようやく初めて入る(オーケストラは一旦退く)。独奏者は31小節、何もせずに座っている。→聴取:この待ちがあるので、ピアノの第一音がやけに大きく聞こえます。 |
| 変奏1 | m.38–54[26]=m.47 | 変ニ調(調号♭4→♭5) | 3/4 | ピアノが先行し、[26] の Meno mosso. で弦・ホルン・クラリネットが加わる。m.53ピアノの短い装飾。♯3 から ♭系へ、遠隔調へ滑り込む。→聴取:主題の輪郭は保たれたまま、色だけが変わります。 |
| 変奏2 | m.55–70[27]=m.65 | ヘ調 | 3/4 | 変奏1のほぼ再現。ピアノが先行し、[27] の Meno mosso. でオーケストラが加わる。→聴取:同じ手順が長3度上でもう一度。 |
| B部 | m.71–84[28]=m.77 | ほぼ全面的に属音の上(Cobb) | 3/4 | Più vivo. → [28] Meno mosso (Adagio).m.71ピアノに T2 の動機。 m.72第1ヴァイオリンに P1 のリズム的変形。第1楽章がこの楽章に最初に顔を出す瞬間。異同:Cobb は m.72 を第1主題とし、Khachatryan は移行素材と読む。→聴取:はっきりした引用ではなく、リズムだけが同じ影として通り過ぎます。 |
| A② 変奏3 | m.85–101[29]=m.93(計数では 94) | 変ロ中心 → ハ中心 | 3/4 | a tempo, più mosso。まず独奏ピアノが ff で熱情的に主題を出し、m.93 でオーケストラが加わる。ここから A 部が階段を上がるように高まっていく。→聴取:同じ主題が、変奏を追うごとに厚く・強くなります。 |
| 変奏4 | m.102–110[30]=m.102 | ニ中心 | 3/4 | ごく短い。主題はヴァイオリン・ヴィオラ・チェロにあり、ピアノは ff の巨大な和音で装飾する。→聴取:主役が弦に移り、ピアノは伴奏側に回ります。 |
| 変奏5 | m.111–121[31]=m.111 | 変ニ復帰 | 3/4 | 初版に allarg. → maestoso と f cantabile(本ガイド実測)。ピアノとオーケストラによる凱旋的な提示。A 部の頂点。→聴取:緩徐楽章の中でいちばん大きく鳴る場所です。 |
| C部への移行 | m.122–129[32]=m.122 | 移行(m.126 から調号♯3) | 3/4 | Tempo come prima. のあと Poco più mosso. で調号が戻る(本ガイド実測)。→聴取:静まって、次の場面の準備に入ります。 |
| C部(3/8 のワルツ) | m.130–183[33]=m.130・[34]=156・[35]=168 | 嬰ヘ中心(調号♯3) | 3/8 | 初版は [33] に複縦線と 3/8 を刷る(本ガイド実測)。m.130ワルツの伴奏音型。m.137クラリネットとファゴットに P1 の変形。 m.157第1ヴァイオリンに S1 のリズム(2台ピアノ版に Viol. I. のキューが印刷されている)。m.168ピアノにも P1 の断片。この楽章の仕掛けの中心。軽いワルツに聞こえるものが、第1楽章の主題そのものである。Ledbetter は「音符ごとに同一。ただし主音でなく第3音から始まり、リズムが変えられて関連がほぼ完全に隠されている」と書く。異同:担当楽器を挙げた資料は Cobb と Ledbetter の2件で、どちらもクラリネットとファゴット。→聴取:スケルツォが始まったと思ったら、旋律の骨は冒頭の主題です。 |
| A③ への移行 | m.184–189[36]=m.184 | 嬰ハ中心 | 3/4 に復帰 | 初版は音価等式 (♩=♩.) を添えて 3/4 に戻す(本ガイド実測)。→聴取:ワルツの回転が止まり、もとの歩幅に戻ります。 |
| A④ 主題の最終提示 | m.190–209[37](Cobb m.190/計数 194) | 調号♯3 | 3/4 | オーケストラのみ、espressivo cantabile。位置が資料と計数で4小節割れる始まりと同じ編成で閉じる——ピアノは黙っている。→聴取:冒頭に戻ってきたことが、音色でわかります。 |
| 第3楽章への橋 | m.210–218[38]・[39]/総譜 p.65–66 | 調号が 1♭ へ | C(4/4) | L'istesso tempo.(3箇所に印刷)。ピアノ独奏の走句 → accel. → ff の劇的なアルペジオ → 総奏の一撃。トロンボーンとティンパニのトレモロが加わり、最後の3小節で sff・全休・ff の終止和音。attacca subito はページに3箇所刷られる(右上・中段右・最下段。本ガイド実測)。緩徐楽章が静かに終わらない。9小節で終楽章の扉を蹴破る。→聴取:拍手の隙は与えられていません。 |
主要主題
| 主題 | 音の動き | 担当 | リズム・性格 |
|---|---|---|---|
| T2(第2楽章の主題) | 音名列を挙げた資料は見つからなかった(Cobb は譜例 m.1–5 を示すが本文に音名を書いていない)。以下は本ガイドが初版 p.46 の版面から採った輪郭で、資料の記述ではない。調号♯3 のまま、高い持続音から始まってすぐ隣の音へ下がり、そこに♮が付く——調号の♯を打ち消す音が主題の2つ目に来る。以後は三連符を挟みながら、狭い音域を順次に上下する。 | オーボエが提示(Ivanova・Houston Symphony)。Cobb は「弦と木管のみ」とだけ書く | 「ため息のような」旋律。ロシアの民俗笛を思わせるという記述がある。A 部の変奏はすべてこの主題から派生する |
| C部のワルツ主題 | P1 の変形。主音ではなく音階上の第3音から始まり、リズムが変えられている(Ledbetter)。 | クラリネットとファゴット(Cobb・Ledbetter が一致) | 3/8 の軽いワルツ。Fanning は「気まぐれな嬰ヘ短調の挿話」と呼ぶ |
別の見立て:変奏曲として読むと
Cobb はこの楽章を「hybrid form」と呼び、A–B–A–C–A という額縁の中に変奏の技法が入っていると見ます。作曲者が「変奏曲」と書いたわけではありませんが、A 部だけを取り出すと主題と5つの変奏がきれいに並ぶので、この語彙で追うと流れがつかみやすくなります。B と C は変奏の列に入らない外来の挿話で、しかもそこにだけ第1楽章の素材が現れる——という対比で見ると、なぜ額縁が必要だったかが見えてきます。
主題にあたる
m.1–25。オーボエの旋律。変奏にあたる
m.38(変ニ)・55(ヘ)・85(変ロ→ハ)・102(ニ)・111(変ニ復帰)の5つ。調が巡り、厚みが増していく。変奏に入らないもの
B(m.71–84)と C(m.130–183)。ここにだけ第1楽章の主題が入り込む。特異点
- この楽章が何調かで、資料が割れる。楽譜の調号は♯3(イ長調/嬰ヘ短調)で、これは本ガイドが底本で確認した事実。しかし Cobb は「ニ短調に始まりニ短調に終わる」、Ledbetter は「イ長調に始まり変ニ調へ転じる」、Ivanova は「イ長調から変ニ長調への唐突な転調」と書く。Fanning が「緩徐楽章は前楽章からの和声的隔たりを橋渡しして始まる」と述べるのが、この食い違いの説明になっている——調号と、実際に鳴っている和声の重心がずれている。
- ピアノが32小節も入ってこない。協奏曲の緩徐楽章としては異例に長い前置きで、しかも最後の A④(m.190–209)もオーケストラだけで奏される。独奏楽器が額縁の外側に置かれている。
- 3/8 のワルツが第1楽章の主題の変装である。Ledbetter は「音符ごとに同一」としながら、開始音を主音から第3音へずらし、リズムを変えたことで「関連がほぼ完全に隠されている」と書く。この楽章でいちばん軽く聞こえる場所が、いちばん構造的な場所になっている。
- 終わり方が緩徐楽章の作法に従わない。静かに閉じるのではなく、9小節の走句と総奏で終楽章へ直結する(
attacca subito)。第2楽章と第3楽章のあいだに切れ目はない。 - ラフマニノフ自演盤はこの楽章にもカットを入れている。Chiao 2012 の表は「[27] の6小節後から [28] の28小節後まで」とし、Rolf Kyburz は「
Più vivoの6小節+続くmeno mosso (Adagio)の7小節、計13小節」とする。両者は範囲が食い違っており、本ガイドでは裁定していない。いずれにせよ B 部が削られていることは一致する。
III. Finale: Alla breve
ソナタ形式(自由)提示部
1–131
1–131
展開部(変ホ長調の挿入)
132–242
132–242
再現部
243–380
243–380
コーダ
381–508
381–508
幅は小節数に比例(Cobb の番号)。コーダが再現部とほぼ同じ長さを持つ。ニ長調に届くのは [73](m.431 付近)。
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| 序奏 | m.1–2総譜 p.67 | ニ短調 | ¢ | 初版が III. / Finale. / Alla breve. (𝅗𝅥 = ♩) を刷り、全楽器名を再掲する(本ガイド実測)。オーケストラが P3 の通底リズムを出す。第2楽章の終止和音から間を置かずここへ入る。→聴取:2小節で拍が切り替わります。 |
| 第1主題群 1部 | m.3–38[40]=m.19 | ニ短調 | ¢ | ピアノ。通底リズムに全面的に基づく舞曲。Cobb は「きわめて効果的」と評する。この楽章の推進力はほぼこの36小節で決まる。→聴取:旋律というよりリズムの塊として聞こえます。 |
| 第1主題群 2部 | m.39–56[41]=m.39 | イ短調 → m.49 で ニ短調 | ¢ | ピアノと弦の和音、m.43 で総奏。Cobb は「ロシア的なリズム」と呼び、グリンカ《ルスランとリュドミラ》に通じるとする。→聴取:四分音符の連打が、舞曲を行進のほうへ寄せます。 |
| 移行 | m.57–71[42]=m.57 | 続唱的に転調 | ¢ | fortissimo。オーケストラが主題を担い、ピアノは通底リズムに基づく技巧的な音型を受け持つ。→聴取:役割がはっきり分かれる、独奏と管弦楽の押し合い。 |
| 第2主題群 1部 | m.72–102[43]=m.80 | ハ長調 | ¢ | 初版に Più mosso(練習番号は付いていない)。ピアノ主奏、弦・ホルン・クラリネット・ファゴットが薄く伴奏。m.78フルートとオーボエの独奏。旋律線は第1楽章の移行部第4部に由来する(Cobb)。区分の要になる標語に限って練習番号が付いていない。→聴取:ようやく歌が戻ってきます。 |
| 第2主題群 2部 | m.103–123[45]=m.103 | ト長調 | ¢ | Meno mosso。高翔する旋律線が m.118 の ff で頂点に達する。Cobb は第2協奏曲第1楽章の第2主題との類似を指摘する。ラフマニノフ公認のカット対象(m.103–131)作曲者自身が容認したカットで、いちばん歌う29小節が丸ごと消える。→聴取:古い録音でここが無いことに気づいたら、それは版の違いではなくカットです。 |
| 終結部 | m.124–131[46]=m.124 | 転調 | ¢ | ピアノに和音アルペジオ、ヴァイオリンに S3 のシンコペーション動機。m.128 で P3 と通底リズムが戻って提示部を閉じる。カットの終点(m.131)→聴取:提示部が円を閉じます。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| 展開部① | m.132–151[47]=m.136 | ニ短調圏(調号1♭) | ¢ | 初版に Allegro molto(練習番号なし)。オーケストラのみ。P1 のリズム動機の変形。ピアノが完全に沈黙する20小節。→聴取:独奏者が休んでいる間に、第1楽章の影が戻ってきます。 |
| 展開部② Scherzando | m.152–170[48]=m.154/総譜 p.84 | 変ホ長調(調号 1♭→3♭) | 4/4 | 初版が Scherzando.(♩ = 𝅗𝅥) を刷り、同時に調号と拍子を変える(本ガイド実測)。弦が2小節和音で通底リズムを出し、m.154 でピアノが P3 の軽妙な変形で入る。ここから100小節以上、曲は主調から完全に離れる。変ホ長調はニ短調のナポリ調にあたる。→聴取:終楽章の真ん中に、まったく別の曲が挟まっているように聞こえます。 |
| 展開部③ | m.171–177[50](Cobb m.170) | 変ホ長調 | 4/4・3/2 が交替 | a tempo(この行は m.171 から。[50] は Cobb の m.170)。ピアノの主題は S1・P3・通底リズムから導かれる(Cobb)。オーボエとコル・レーニョのヴァイオリンが加わる。→聴取:弦を弓の木部で叩く乾いた音が、変奏の色を変えます。 |
| 展開部④ | m.178–187[51]=m.178 | 変ホ長調 | 4/4 | Più vivo。P3 の反行形+通底リズム。→聴取:主題が上下逆さまに現れます。 |
| 展開部⑤ | m.188–193[52](Cobb m.186) | 変ホ長調 | 3/2 | Meno mosso(この行は m.188 から。[52] は Cobb の m.186)。通底リズムと P3 から導かれた主題のカンタービレ処理、広い間隔のアルペジオ伴奏。ラフマニノフ公認のカット対象(m.188–201)2つ目の公認カット。13小節。→聴取:ここも古い録音では飛ばされていることがあります。 |
| 展開部⑥ | m.194–200[53](Cobb m.194/計数 195) | 変ホ長調 | 4/4 | a tempo。オーケストラに S1 の諧謔的な処理。カットの内側→聴取:第1楽章の第2主題が、まじめな顔をやめて出てきます。 |
| 展開部⑦ | m.201–208[54](Cobb m.201/計数 206) | 変ホ中心・旋法借用 | 4/4 | ヴィオラとチェロが P1 を熱情的に提示する。伴奏は P3 の三連符リズム。カットの終点(m.201)=この主題回帰の直前まで飛ぶ終楽章で第1楽章の主題がいちばんはっきり戻ってくる場所——全曲の要。→聴取:中低弦だけで歌われるので、輝かしくはなく、遠くから帰ってきたように聞こえます。 |
| 展開部⑧ Lento | m.209–221[55]/総譜 p.96 | ホ長調(ピアノ譜のみ調号♯4) | 4/4 | 初版は [55] からピアノ譜だけを♯4に変え、休止中の管弦楽譜は♭3のまま残す(本ガイド実測)。S1 のカンタービレ版が全区間を通じて提示される。molto espressivo、フルートとホルンの Solo。変ホ長調の海のなかに、ホ長調の島が浮かぶ。半音上への遠い迂回。→聴取:終楽章でいちばん時間が止まる場所です。 |
| 展開部⑨・⑩とコラール | m.222–242[56]の直後・[57]・[58] | 変ホ長調 | 4/4 → ¢ | a tempo come prima で変ホ長調に急転し、P3 のさらなる変形と S1 の変形が重なる。m.238ピアノ独奏の4小節のコラールが再現部を導く。激しさの直後に、突然の讃美歌調。→聴取:この4小節が、再現部への呼吸の切り替えです。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| 導入 | m.243–246[59]/総譜 p.102 | 変ホ長調(調号3♭) | ¢ | 初版に Tempo I. Alla breve.(𝅗𝅥=♩)、ティンパニに muta Es in D(本ガイド実測)。4小節の導入が通底リズムを再確立する。再現部が主調で始まらないソナタ形式の再現部が、主調ではなくナポリ調(変ホ長調)で始まる。→聴取:戻ってきた感じが薄いのは、調がまだ帰っていないからです。 |
| 第1主題 | m.247–302[60]・[61]・[62] | ハ短調 → m.292 ヘ長調 → m.299 ト長調 | ¢ | 弦・オーボエ・クラリネット・ファゴットが第1主題を提示。m.292 でピアノが引き取り、歯切れよいスタッカート和音の伴奏を付ける。ハ短調 → ヘ長調 → ト長調と、上へ上へ動きながら主調へ近づく(4度上・つづいて2度上)。→聴取:同じ主題が、調を替えて3度出てきます。 |
| 移行 | m.303–318[63](4小節後に調号1♭へ復帰) | 移行的 | ¢ | オーケストラが第1主題、ピアノは marcato の和音。初版はここで調号を1♭に戻す(本ガイド実測)。ようやくニ短調の調号が帰ってくる。→聴取:足場が固まる瞬間です。 |
| 第2主題 1部 | m.319–349[64]と[65]のあいだ | 変ロ長調 | ¢ | Più mosso。伴奏の細部を除き提示部とほぼ同一。→聴取:提示部でハ長調だったものが、変ロ長調で返ってきます。 |
| 第2主題 2部 | m.350–380[66]と[67]のあいだ | ヘ長調 | ¢ | Più vivo。伴奏がスタッカート8分和音に変わるほかは提示部の再現。→聴取:ここまで来てもまだニ長調ではありません。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 拍子 | 内容と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|
| コーダ 1 | m.381–430[69]=m.381・[70]・[71]/総譜 p.122 | 属音ペダル上 | 6/4([69] の3小節後から) | 初版に Vivace. と (♩.=♩)、Tamburo militare が登場し、弦に col legno(本ガイド実測)。P1 のリズム的変形——Cobb は「第1楽章カデンツァでの現れ方に最も近い」と書く。m.405 は第1楽章カデンツァの冒頭に似た音型。第1楽章の主題が、最後にもう一度だけ戻る。→聴取:小太鼓とコル・レーニョの乾いた音が、軍楽風の色を足します。 |
| オーケストラ間奏 | m.431–436[73]/総譜 p.127–128 | ニ長調に到達 | 6/4 | 初版は [73] の置かれた小節で二重線とともに調号を1♭から2♯へ変える(本ガイド実測)。6小節の総奏。木管に長いトリル、Gr. Cassa e Piatti が戻る。全曲を通していちばん遅く、終わりの目前になって初めてニ長調に届く。→聴取:ここから最後まで、調号は一度も変わりません。 |
| 短いカデンツァ | m.437総譜 p.129 | ニ長調 | —(小節線なし) | 総譜 p.129 は小節線を1本も持たない1ページで、Cadenza と記されたピアノ独奏だけが置かれる(molto marcato → rit.。本ガイド実測)。通底リズムに基づく短く輝かしいもの。第1楽章のカデンツァと違い、独立した楽節ではなく大主題への助走。→聴取:数十秒で終わります。ここで拍が消えるので、次に入る 6/4 の大主題がいっそう大きく鳴ります。 |
| コーダ 2(ニ長調の大主題) | m.438–488[74]=m.438/総譜 p.130 | ニ長調 | 6/4 | 初版に Vivacissimo.(本ガイド実測)。S1 のカンタービレ版に基づく凱旋的提示。通底リズムは依然として鳴り続ける。第1楽章の第2主題が、二つの楽章をまたいでここへ辿り着く。→聴取:初めて聴くと新しい旋律に聞こえますが、第1楽章の m.107 で一度歌われたものです。 |
| ブラヴーラ | m.489–501[77]・[78] | ニ長調 | 6/4 / ¢ | 下降する輝かしいオクターヴ、続いて上昇する和音アルペジオ。初版に poco a poco accel. と a tempo、弦の pizz.(本ガイド実測)。→聴取:独奏者の見せ場が最後に来ます。 |
| 終結 | m.502–508[79]=m.502/総譜 p.137–138 | ニ長調 | ¢ | 初版に Più vivo. → Presto.(本ガイド実測)。S3 への最後の言及のあと、3つの sforzando 和音と4音の締め。フェルマータもリタルダンドも印刷されていない(Cobb)。減速せずに終わる——ff から sff へ畳みかけ、最後の2小節が sff。→聴取:第1楽章が消え入るように終わったのと、正反対の閉じ方です。 |
主要主題
| 主題 | 音の動き | 担当 | リズム・性格 |
|---|---|---|---|
| P3(第1主題)/通底リズム | 序奏2小節のリズムの上に立つ舞曲。音名列を挙げた資料は見つからなかった(Cobb は譜例 m.3–4 を示すが本文に音名を書いていない)。本ガイドが初版 p.67 の版面で確かめた範囲では、m.3 のピアノは単旋律ではなく和音の連打で入る——切れ目のない8分音符の流れに > が打たれ、旋律線ではなく打鍵のリズムが前に出る。Cobb がこの主題を「リズムに全面的に基づく」と呼ぶのは、この記譜のことである。 | オーケストラ(序奏)→ ピアノ(m.3) | Cobb「通底リズムに全面的に基づく、きわめて効果的な舞曲」。展開部では反行形でも現れる |
| S3(第2主題) | 1部はハ長調、2部はト長調で高翔する。旋律線は第1楽章の移行部第4部に由来する(Cobb)。 | 1部はピアノ主奏+薄い伴奏、m.78 にフルートとオーボエの独奏 | 2部は m.118 の ff で頂点。第2協奏曲第1楽章の第2主題にわずかに似る(Cobb) |
| ニ長調の大主題(m.438) | S1(第1楽章第2主題)のカンタービレ版に基づく。 | 総奏 | 帰属は資料で割れる——Cobb 1975 p.105 は「第1楽章の第2主題の後半部に基づく」と明記するが、Ivanova は同じ箇所(練習番号 [74])を「第3楽章の第2主題に基づく荘厳な讃歌」と呼ぶ(p.62)。表は Cobb を採った。通底リズムが下で鳴り続ける |
提示部
第1主題群=ニ短調、第2主題群=ハ長調(♭VII)→ ト長調(長調化された IV)。短調ソナタの定石(III=ヘ長調、または v=イ短調)から外れている。再現部
導入=変ホ長調(ナポリ調)、第1主題=ハ短調 → ヘ長調 → ト長調、第2主題=変ロ長調 → ヘ長調。どこにもニ短調が無い。対比の軸は調性。ただし提示部の側からすでに定石を外している——短調ソナタが副次主題に選ぶのは通常 III(ヘ長調)か v(イ短調)で、ハ長調(♭VII)とト長調はどちらも属方向ではない。再現部はそれをさらに下属方向(変ロ長調=VI、ヘ長調=III)へずらし、主調ニ短調は移行部(m.303 の調号復帰)で一瞬顔を出すだけで終わる。古典的な短調ソナタが再現部で果たす主調への回収を、この楽章は同主長調のコーダへ丸ごと預けている——「解決が遅い」のではなく、解決の場所そのものが動いている。
特異点
- 展開部の位置に、変ホ長調の長大な挿入部が置かれている。英語版 Wikipedia は「慣例的な展開部はなく、変ホ長調への長い脱線がそれに代わる」とし、Ivanova は「4つの変奏からなるミニ変奏曲」と読む。主題を分解して展開するのではなく、遠隔調で新しい変奏の列を始めてしまうところが、ソナタ形式からの最大の逸脱にあたる。
- 再現部がニ短調で始まらない。変ホ長調(ナポリ調)で始まり、ハ短調・ヘ長調・ト長調を経てもなお主調に帰らない。主調の調号が戻るのは移行部(m.303 の [63] の4小節後、本ガイド実測)で、しかもそこは第2主題の手前である。解決はコーダのニ長調まで持ち越される。
- ニ長調に届くのは、終止のすぐ手前である。初版で調号が2♯に変わるのは [73] の小節(総譜 p.127)で、そこから終止の複縦線まで一度も変わらない(本ガイド実測)。ニ長調は「転調して行く先」ではなく、最後に一度だけ開かれる扉として扱われている。
- 終楽章にも短いカデンツァがある。総譜 p.129 に
Cadenzaと記された、小節線のないピアノ独奏(本ガイド実測)。第1楽章のカデンツァのように独立した楽節ではなく、ニ長調の大主題への助走として置かれている。 - ラフマニノフ公認のカットが2箇所ある。m.103–131([45] の
Meno mossoからAllegro moltoの直前まで、29小節)と m.188–201([52] の後のMeno mossoから [54] のa tempoまで、13小節)。前者は Cobb(小節番号)と Rolf Kyburz(練習番号・媒体未確認)が別々の単位で書いて小節数まで一致し、Chiao 2012 の表とも整合する。ラフマニノフは自演盤でこの2つを実行しており、Bachauer の証言では「晩年は常に第3楽章をこのカットで弾いた」(Chiao 2012 が Martyn から引くもの)。近年はノーカット演奏が一般的。 - フェルマータもリタルダンドも書かれていない終結。Cobb が指摘するとおり、初版の最後の小節群には減速の指示がない。
Presto.のまま sff の和音3つで断ち切られる(本ガイド実測)。
参考文献
- Gary Woodrow Cobb, A Descriptive Analysis of the Piano Concertos of Sergei Vasilyevich Rachmaninoff, MM thesis, Texas Tech University, 1975. ttu-ir.tdl.org(本文PDF)(全3楽章を小節単位で追った通し分析。本ガイドが確認できた範囲でこの種のものは他に無く、第2・第3楽章の小節番号はこれに拠る)
- 한나래(Han Narae)「Sergei Rachmaninoff Piano Concerto No. 3, Op. 30 작품 분석 및 연주 방향 고찰」ソウル大学校大学院 音楽科 修士学位論文, 2020. s-space.snu.ac.kr(第1楽章の区分と調、および総小節数 454/438 の明文の典拠)
- Varazdat Khachatryan, Re-Assessing Rachmaninoff's Legacy: The Piano Concertos and Evolution of His Musical Style, PhD thesis, Technological University Dublin, 2021. DOI 10.21427/RV1F-QB86. arrow.tudublin.ie(カデンツァ2稿の小節範囲と成立事情、両番号系統の併記)
- Yuanpu Chiao, The Changing Style of Playing Rachmaninoff's Piano Music, PhD thesis, King's College London, 2012. kclpure.kcl.ac.uk(カデンツァの長さ 75/59小節、自演盤の5箇所のカットを練習番号で示した表、1958年の分水嶺)
- Gulrukh Shakirova, Lives of Rachmaninov's Third and Fourth Piano Concertos, D.Mus. dissertation, Indiana University Jacobs School of Music, 2022. hdl.handle.net(「ossia は16小節長い」の独立した裏づけ)
- Scott Davie, Structure and Contour in Melodies of S. Rachmaninoff, PhD thesis, University of Sydney, 2009(第1主題の楽節構造と、Yasser 説への実質的反駁)
- Joseph Yasser, "The Opening Theme of Rachmaninoff's Third Piano Concerto and Its Liturgical Prototype," The Musical Quarterly LV/3 (1969): 313–328. ※本文は未読。本ガイドの記述はすべて二次的な引用による
- Geoffrey Norris, Rachmaninoff, Oxford University Press (Master Musicians), 2001, pp.117–118. ※Khachatryan 経由の引用のみ。原本未見
- Barrie Martyn, Rachmaninoff: Composer, Pianist, Conductor, Scolar Press/Ashgate, 1990, pp.211–212, 216. ※原本未見。自筆譜の来歴と自演のカット表という、本ガイドの記述の根本典拠にあたるが、Chiao と Khachatryan の引用を通してしか参照していない
- Anastassia Ivanova, Sergei Rachmaninoff's Piano Concertos: The Odyssey of a Stylistic Evolution, DMA dissertation, University of Maryland. hdl.handle.net(学位論文。第2楽章の調と、終楽章中間部を「4つの変奏からなるミニ変奏曲」と読む点で引いた)
- Abraham Johannes van Eeden, 'n Kritiese bespreking van die ooreenkomste tussen Sergei Rachmaninoff se op. 28 en op. 30, MMus, Universiteit van Pretoria, 2015. hdl.handle.net(学位論文・アフリカーンス語。第2主題群の分割案として引いたが、Cobb 1975 からの派生であり独立の裏づけには数えていない)
- Yuri Keldysh(belcanto.ru 所収のロシア語テキスト)— 第1主題を「短調のヘクサコルドを基礎とし、3度の細胞をリズムを変えて反復する」と記述。媒体は解説サイトへの再録で、初出の書誌は未確認
- David Fanning, ライナーノーツ, Hyperion, 2017(ライナーノーツ。第2楽章の冒頭を「前楽章からの和声的隔たりを橋渡しして始まる」とする記述、および 3/8 部を「気まぐれな嬰ヘ短調の挿話」と呼ぶ箇所で引いた)
- Houston Symphony, プログラムノート(プログラムノート。第2楽章のオーボエ提示と、m.72 のヴァイオリンによる第1楽章主題の示唆)
- Rolf Kyburz — 伝統的なカットを練習番号で記述した資料。媒体を特定できていないため、本ガイドは裁定の根拠には使っていない(本文の該当箇所にもその旨を書いた)
- Gina Bachauer の証言(ラフマニノフの弟子。晩年の第3楽章のカット常用について)— 原典未見。Chiao 2012 が Martyn から引くものを通して参照
- tonic-chord.com — 無署名の解説サイト。第3楽章の総小節数の突合にのみ使い、典拠としては数えていない
- Harlow Robinson, プログラムノート, Boston Symphony Orchestra. bso.org/Steven Ledbetter, プログラムノート, Aspen Music Festival/Harald Hodeige, プログラムノート, Berliner Philharmoniker(いずれもプログラムノートであって査読された研究ではない)
- 楽譜(底本):Sergei Rachmaninoff, 3ème Concerto, Op.30, full score. Moscow: A. Gutheil, 1910. Plate A. 9086 G. Gravure et Impression de Breitkopf & Härtel, Leipzig. IMSLP #248685(136頁)。あわせて2台ピアノ版 Plate A. 9088 G.(IMSLP #105599)
- 参照録音:Boris Giltburg (pf), Carlos Miguel Prieto / Royal Scottish National Orchestra, Naxos 8.573630(カットなし。17:39/11:09/14:46)
- ※ Henle 原典版(HN 1452, 2023・大英図書館蔵自筆総譜を初照合)の校訂報告は未入手。入手できたら本ガイドの版面記述と突き合わせる
第1版 | 初版 2026-09-05 | 最終改訂 2026-09-06