楽曲ガイド 作品と関連記事

R.シュトラウス:アルプス交響曲 Op.64

Richard Strauss, Eine Alpensinfonie, Op. 64(1915)

枠の地図:全曲は変ロ短調の「Nacht(夜)」に発し、変ロ短調の「Nacht」に還る額縁構造。

出典・底本
底本(楽譜の版):F.E.C. Leuckart, Leipzig, 1915 の総譜(plate F.E.C.L. 7531/IMSLP #20542、Dover 復刻・160頁)。調号とテンポ標語の確認には同社 1914 年の Otto Singer II 編ピアノ編曲譜(plate F.E.C.L. 5743/IMSLP #05047・64頁)を併用した。両版の練習番号は全22場面で一致することを突き合わせて確かめてある。
位置の準拠:本ガイド実測(底本=上記総譜)。この版は小節番号を刷らず、練習番号(Ziffer)だけを通しで刷るので、位置は Ziffer で示す。場面の見出しが Ziffer とずれる箇所は「41 の直前」「76 の直後」のように書く。旧版(第1版)は「場面の通し番号のみ・確認できた練習番号は94の1点」としていたが、これは無料の二次資料に一覧が無かったためで、一次資料には最初から刷られていた。
参照録音(時間目安の基準):ルドルフ・ケンペ/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団/Testament SBT 1428(1966年録音)。同盤はホルン協奏曲第1番とのカップリングで全25トラック、うちアルプス交響曲が22トラック。区分の「≈mm:ss」は耳による実測ではなく、この盤の公表トラック長を累積して最近傍10秒に丸めた値で、(1) トラックの割りが場面の境界と一致することに依存し、(2) 22件中21件が秒単位の値=人の入力とみられるため、丸め誤差が累積して終盤で最大±11秒(典型±2秒)動きうる。機械可読な典拠は MusicBrainz のリリース1件のみ。旧版が挙げていたケンペ/シュターツカペレ・ドレスデン(1971)は、場面ごとのトラック分割が確認できず時間目安を作れないため参照録音から外した。
調号は直接観測した事実だが、調号と調は別物である。主調を名指すのは、和声が明白か外部の典拠と一致する場面(1・2・3・19・20・22)に限り、他は調号だけを記す。調号は実音記譜の段(フルート・オーボエ・ハ調クラリネット・ファゴット・ハ調トランペット・トロンボーン・弦)で読む。移調楽器の段(Es 管クラリネット・B 管クラリネット・ホルン等)は同じ響きでも別の調号を刷るので、そこを読むと調号を取り違える。
主な分析ソース(底本以外):英語版/独語版 Wikipedia「An Alpine Symphony/Eine Alpensinfonie」(22場面リスト・初演1915年10月28日・当初題 "Der Antichrist")/Berliner Philharmoniker「An Alpine Symphony – Introduction」(夜の動機=変ロ短調、登高主題=変ホ長調、日の出=イ長調、額縁構造)/Nashville Symphony・BSO・The Conversation の解説。編成・楽器の初出・演奏指示は二次資料ではなく底本から採った。ただし本文が引く Str. u. Hrf. Gr. Orch. Fag. Cl. E.H. のような合成された楽器 cue は編曲譜のもので、総譜は楽器ごとに独立した段と正式名を刷る(合成する必要が無い)。段名・強弱・演奏指示は総譜、合成 cue は編曲譜、と読み分けている。

全曲の俯瞰(11時間の登山行程を約49分で)

場面群位置(Ziffer)調号聴きどころ
夜・日の出(1–2)冒頭 – 11♭5 → ♯320部に分かれた弦が最弱音で変ロ短調の音階を下りていく。そこへトロンボーンとバステューバが marcato で山塊の輪郭を刻み、Ziffer 7 で全合奏の日の出が割り込む。
登り(3–9)12 – 58♭3 → ♯4 → ♭3「Sehr lebhaft und energisch」の登高主題が弦とハープで始まり、全曲を牽引する。森は長く、滝から花畑にかけて調号が最も♯側へ開き、高原ではカウベルが40小節鳴り続ける。
頂上へ(10–12)59 – 75♭3 → ♭1藪では動機が細かく砕けて絡み、氷河で響きが硬く張り詰める。頂の直前に「Gefahrvolle Augenblicke(危険な瞬間)」が挟まる。
頂上(13–14)76 – 96♭1 → 調号なしトロンボーンの主題で視界が開き、Ziffer 77 の「Frei im Vortrag」でオーボエが自由に歌う。オルガンは Ziffer 95 でようやく入り、Ziffer 94 から木管が倍管になる。
翳り(15–18)97 – 109調号なし → ♯3霧が視界を奪い、日の出の音楽が裏返る。エレジーの弦のあと、風の機械が Ziffer 108 から低く回り始める。
嵐・下山(19)110 – 128♭5 → ♯ → ♭3オルガンが volles Werk で加わり、Ziffer 124 で雷鳴の機械が入る。登高主題を上下反転させて駆け下りる。
夜へ還る(20–22)129 – 終結♭3 → ♭58本のホルンが maestoso で夕映えを支え、Ziffer 135 には「in sanfter Extase(穏やかな恍惚のうちに)」と書かれる。冒頭の下降音階が戻り、弦は全部が分割・弱音器で ppp に沈む。
額縁の糸:両端の「Nacht(夜・変ロ短調)」が全曲を額装し、冒頭の下降音階が末尾で回帰して閉じる。動機は登山の各局面に貼り付けられ、なかでも登高主題は下山(19)で上下反転して再登場する。形式はソナタ形式ではなく、標題の筋と動機の変容が構成原理(→下の動機凡例)。♭5 の調号が現れるのは、通読した 160 頁のうち冒頭・嵐の前半・末尾の三つの領域だけである。
成立・編成(★は底本=総譜・編曲譜からの実測)
  • ★20部に分割した弦:冒頭 Nacht で第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのすべてに (vierfach) の指定があり、5群×4=20部になる。同時に鳴るのはクラリネット2・バスクラリネット・ファゴット3・ホルン2・トロンボーン4・バステューバ1で、いわゆる「ファゴットと弦だけ」ではない
  • ★舞台裏バンダ:Ziffer 18–19 の (Jagdhörner von ferne.) に 12 Hörner (Es) hinter der Scene、2 Trpt (C) hinter der Scene、2 Pos. と明記。舞台上の8本とは別勘定で、狩のホルンが遠くから鳴る
  • ★特殊楽器の初出は場面ごとにずれる:カウベル(Herdengeläute)は Ziffer 51、オルガンは Ziffer 95、風の機械は Ziffer 108、雷鳴の機械は Ziffer 124。オルガンは頂上の場面の内側からすでに響いている
  • ★カウベルは40小節続く:ピアノ編曲譜に etc folgende 40 Takte. と書かれ、総譜には (leise, wie von Ferne) から (ganz verschwindend) まで遠近の指示が並ぶ
  • 4管編成にヘッケルフォン、ワーグナーチューバ4、バステューバ2、ハープ2、チェレスタが加わる。ホルンは Ziffer 129 の Sonnenuntergang で8本に増える
  • ニーチェ『反キリスト者』との関連:当初題は "Der Antichrist: Eine Alpensinfonie"。1911年のマーラーの死を機に構想が組み直された。自然崇拝と自力による道徳的純化という「地上的」主題(Wikipedia/Nashville Symphony)
  • 自己引用:日の出は『ツァラトゥストラはこう語った』を、夜の下降音階は自作の交響曲ヘ短調を引くとされる(The Conversation)
この曲を貫く主要動機(凡例)
夜の動機
変ロ短調の音階を順次下降する。編曲譜の cue は Str. Cl. Fag. Hr.、強弱は総譜・編曲譜とも pp で、20部に割った弦が音階の各段を分け持つ。速度は Lento、拍子は 4/4。低く、遅く、途切れずに降りる
山の主題
Ziffer 1 で Pos. Btb. marcato——トロンボーン4本とバステューバが、夜の音階の下で角ばった音型を刻む。旋律というより山塊の輪郭で、金管の重さそのものが標識になる
日の出動機
Ziffer 7、調号♯3。楽器指定は Gr. Orch.(大管弦楽)で fff。木管の上行音形に弦のクレッシェンドが重なり、金管のファンファーレが上から差し込む。テンポ標語は Festes Zeitmaß, mäßig langsam で、速くはならない
登高の主題
Ziffer 12 の直前、調号♭3。ff Str. u. Hrf.(弦とハープ)で始まり、Ziffer 13 で C.-B. Vlc. Fag. Hr. が低音側から加わる。跳ねる付点で上行し、途中で息を継ぐように止まる。Sehr lebhaft und energisch。下山(Ziffer 110 以降)で上下反転して戻る
頂上の主題
Ziffer 76 の直後、調号♭1。ff のトロンボーンが幅の広い音型を吹き、そこから視界が開く。続く Ziffer 77 は Etwas ruhiger. / Frei im Vortrag. と書かれ、オーボエが拍から自由に歌う
ヨーデル動機
Ziffer 51 の直前、調号♭3、Mäßig schnell (alla breve)。楽器指定は Fag. Cl. E.H. で、そこへ Dazu Herdengeläute.(加えてカウベル)と書き足される。跳躍を含む素朴な節回し
ヴィジョンの動機
Ziffer 88 の直前、Fest und gehalten(しっかりと、保って)。調号は♯側へ振れ、ff Vlc. Hr. がチェロとホルンで太い線を張る。頂上の輝きの後に来る、密度の高い持続

夜・日の出 場面 1–2

額縁の起点(Ziffer 冒頭 – 11)
調号:♭5 → ♯3Lento → Festes Zeitmaß 弦は20部に分割≈0:00 – 4:20
Nacht・下降音階(Ziffer 冒頭–6)
Sonnenaufgang(Ziffer 7–11)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Nacht
夜
1 · 冒頭≈0:00 ♭5 b moll 夜の動機山の主題 Lento. 4/4。20部に割った弦にクラリネット・ファゴット・ホルンが重なり、pp で変ロ短調の音階を下降する。Ziffer 1 でトロンボーン4本とバステューバが marcato で入り、下降の下に角ばった輪郭を置く。Ziffer 5 に Allmählich ein wenig bewegter(次第に少し動きをもって)。
→ 聴取:暗闇から始まる、低く下りていく弱音の音階。途中から金管が下側で角を立てる。額縁の起点。
Sonnenaufgang
日の出
2 · Ziffer 7≈3:00 ♯3 A dur 日の出動機 Festes Zeitmaß, mäßig langsam.(一定の速度で、ほどよく遅く)。楽器指定は Gr. Orch. の fff。調号がフラット5つからシャープ3つへ一気に振れる。Ziffer 8 でチェロ・ファゴット・バスクラリネットが線を引き継ぎ、Ziffer 11 に accelerando。
→ 聴取:金管が割り込んで一気に夜が明ける。速度は上がらないまま、光量だけが増える。
この場面群の特異点
  • ♭5 から♯3 へ、間の段階を踏まずに切り替わる。通読した範囲で、これほど遠い調号が隣り合うのはここだけ
  • 冒頭の編成は最初から厚い:底本の1頁目にクラリネット2・バスクラリネット・ファゴット3・ホルン2・トロンボーン4・バステューバが並ぶ。全員が pp なので薄く聞こえるだけで、「弦とファゴット」で足りる書法ではない
  • 日の出は加速しない。Festes Zeitmaß=「一定の速度で」の指定があり、輝きは音量と音域だけで作られる

登り 場面 3–9

森・水・高原(Ziffer 12 – 58)
調号:♭3 → ♯4 → ♭3Sehr lebhaft und energisch 舞台裏バンダ(Ziffer 18–19)≈4:20 – 16:40
登高主題(12–20)
森(21–36)
小川・滝・幻影(37–46)
花畑(47–50)
高原(51–58)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Der Anstieg
登り
3 · Ziffer 12 直前≈4:20 ♭3 Es dur 登高主題 Sehr lebhaft und energisch.(きわめて生き生きと、力強く)。ff Str. u. Hrf. で主題が立ち上がり、Ziffer 13 で C.-B. Vlc. Fag. Hr. が低音から支える。Ziffer 17 に Tempo primo, sehr energisch、Ziffer 18 に marcatissimo。
→ 聴取:跳ねる付点で上行する行進の主題。これが下山では上下反転して戻ってくる。弦とハープという出だしの取り合わせが、あとで金管に置き換わる。
(狩のホルン)
舞台裏バンダ
Ziffer 18–19≈5:30 ♭3 狩の呼び声 (Jagdhörner von ferne.)——舞台裏にホルン12・トランペット2・トロンボーン2。舞台上の合奏とは別の場所から、遠近をつけて鳴る。
→ 聴取:ホルンの群れが客席の外から聞こえる。登山道の向こう側に別の人間がいる、という距離の感覚。
Eintritt in den Wald
森に入る
4 · Ziffer 21≈6:30 ♭3 山の主題 楽器指定は Gz. Orch.(全管弦楽)。Ziffer 22 に Etwas drängend(やや急いで)→ Wieder getragen(再び担うように)、Ziffer 26 Etwas lebhafter、Ziffer 28 Wieder etwas drängend → Allmählich beruhigen、Ziffer 31 Tempo primo, un poco moderato。参照録音で5分17秒あり、Ausklang(5分52秒)に次いで長い。
→ 聴取:ここだけ時間の流れ方が違う。速度指示が細かく揺れ、登山の描写というより森の内部の滞在になる。
Wanderung neben dem Bache
小川に沿う逍遥
5 · Ziffer 37–38 の間≈11:50 ♭4 流れの音形 見出しは Ziffer 37 と 38 の間に置かれる。Str. u. Hlzbl. の細かい音形が流れを作り、直後の Ziffer 38 に Allmählich bewegter、Ziffer 39 に Allmählich noch lebhafter と、二段構えで加速していく。
→ 聴取:せせらぎの音形に乗って、少しずつ速くなる。滝の場面へ切れ目なく渡される。
Am Wasserfall
滝のほとり
6 · Ziffer 41 直前≈12:30 ♯2 飛沫の音形 Sehr lebhaft. 調号がフラット4つからシャープ2つへ切り替わる。Ziffer 41 の楽器指定は Hlzbl. Hrf. Celesta.——木管・ハープ・チェレスタで水の粒を作る。参照録音でわずか15秒。
→ 聴取:全曲で最も短い場面。チェレスタとハープが入った瞬間だけ、音の質感がガラス質に変わる。
Erscheinung
幻影
7 · Ziffer 42≈12:50 ♯2 幻の旋律 調号は滝のまま。pp の Hb. Cl. に Br. E.H. が寄り添い、飛沫の音形の上に別の旋律が浮かぶ。Ziffer 43 で Fl. Hrf. Celesta が引き継ぐ。
→ 聴取:滝の音は止まらないまま、その上に人の声のような線が現れる。場面の切れ目が聞こえない。
Auf blumige Wiesen
花咲く野で
8 · Ziffer 47≈13:40 ♯4 弦の甘い書法 Sehr lebhaft. 調号はシャープ4つで、全曲で最も♯側へ開く。Hlzbl. Hrf. Br. の pp から始まり、Ziffer 48 で弦のピッツィカート、Ziffer 49 に Immer lebhafter。
→ 聴取:ここが調号の弧のいちばん明るい端。音域が上がり、和音の当たりが柔らかくなる。
Auf der Alm
高原牧場で
9 · Ziffer 51 直前≈14:30 ♭3 ヨーデル動機 Mäßig schnell (alla breve). 楽器指定 Fag. Cl. E.H. に Dazu Herdengeläute. が加わる。カウベルは (leise, wie von Ferne) で入り、ピアノ編曲譜に etc folgende 40 Takte.——40小節続く。総譜には (stärker einsetzen)〜(ganz verschwindend) の遠近指示が並ぶ。Ziffer 56 Schnell、57 Frisch vorwärts で高原を離れる。
→ 聴取:牛の鈴には40小節ぶん、強弱が書き分けてある。近づいて、離れて、消える。
この場面群の特異点
  • 森は参照録音で5分17秒あり、頂上(4分41秒)より長い。速度指示が7回変わって、登る描写から森の中の滞在へ性格が移る。22場面でこれより長いのは終盤の Ausklang(5分52秒)だけ
  • 調号の最も明るい端は花畑:♯4。日の出(♯3)より一段開いており、光の頂点と調号の頂点が一致しない
  • 滝は15秒で、22場面の最短。前後の小川・幻影と地続きに書かれていて、切れ目が耳では取りにくい
  • カウベルは記譜された声部:遠近の指示が5段階書き分けられ、40小節続く。鳴っている時間の長さそのものが情景になっている
  • 底本の綴りは Auf blumige Wiesen:一般に流布する Auf blumigen Wiesen と1文字違う(→下の注)

頂上へ 場面 10–12

藪・氷河・危険(Ziffer 59 – 75)
調号:♭3 → ♭1Immer im Charakter heftigen Drängens ≈16:40 – 20:30
藪と灌木(59–67)
氷河(68–71)
危険な瞬間(72–75)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Durch Dickicht und Gestrüpp auf Irrwegen
藪と灌木をかき分け道に迷う
10 · Ziffer 59≈16:40 ♭3 動機の断片化 見出しが Ziffer 59 と 60 に分かれて刷られるほど長い。Vcl. Hr. Fag. Heckelph. の ff から始まり、Ziffer 62 に Immer im Charakter heftigen Drängens(つねに激しく急き立てる性格で)。
→ 聴取:既出の動機が短く切られて重なり合う。旋律が続かないこと自体が「道に迷う」の描写になっている。
Auf dem Gletscher
氷河の上で
11 · Ziffer 68 直前≈18:10 ♭1 山の主題 Festes, sehr lebhaftes Zeitmaß (un poco maëstoso).(一定の、きわめて生き生きした速度で。やや堂々と)。調号がフラット3つから1つへ減る。Trp. Pos. と Str. が交互に張り、ティンパニが下を支える。
→ 聴取:響きが硬く、明るく、乾く。森や高原の柔らかさが消えて、金管の直線が前に出る。
Gefahrvolle Augenblicke
危険な瞬間
12 · Ziffer 72 直前≈19:10 ♭1 緊迫の断片 A tempo, lebhafter als vorher.(もとの速度で、前より生き生きと)。ティンパニの刻みの上に Fag. と Hlzbl. Str. pizz. の短い応答。Ziffer 71 のあとに poco calando が置かれ、いったん力を抜いてから入る。
→ 聴取:刻みが止まらないまま、上で会話が途切れる。頂上直前に置かれた1分半の空白のような場面。
この場面群の特異点
  • 調号が♭1へ痩せる:氷河から頂上まで、全曲でいちばん臨時記号に頼る領域になる。調号の情報量が減ることと、和声が不安定になることが同時に起きている
  • 頂上の直前に危険を置く設計:到達の直前に緊張を差し込む配置は、登山の実際の時系列でもあり、音楽的な引き延ばしでもある
  • 藪の場面には、まとまった主題が一つも出てこない。動機の断片だけで4分近くを持たせる

頂上 場面 13–14

到達と幻想(Ziffer 76 – 96)
調号:♭1 → 調号なしFrei im Vortrag(Ziffer 77) オルガン初出=Ziffer 95≈20:30 – 28:50
Auf dem Gipfel(76–87)
Vision(88–96)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Auf dem Gipfel
頂上にて
13 · Ziffer 76 直後≈20:30 ♭1 頂上の主題 トロンボーンが ff で幅の広い音型を吹き、そこから dim. で pp まで引く。続く Ziffer 77 は Etwas ruhiger. / Frei im Vortrag.(やや静かに。自由な語り口で)で、オーボエが拍から離れて歌う。Ziffer 78 Bewegter → Wieder etwas ruhiger、Ziffer 80 Allegro maëstoso、Ziffer 85 Ziemlich breit と、到達したあとに何段も高みが積まれる。
→ 聴取:視界が開く一撃のあと、すぐに音量が引いてオーボエ独奏になる。いちばん有名な「たどたどしい歌」は幻想の場面ではなく、頂上の内側にある。
Vision
幻想
14 · Ziffer 88 直前≈25:10 調号なし ヴィジョンの動機 Fest und gehalten.(しっかりと、保って)。チェロとホルンが ff で太い線を張り、実音段の調号がここで外れる。Ziffer 94 でフルート・オーボエ・クラリネットの譜表に D(倍管)の指定が現れ、Ziffer 95 でオルガンが初めて加わる(Orgel und Bl.)。
→ 聴取:木管の人数が増えて、響きの底が一段厚くなる瞬間がある。オルガンはここで入る。嵐まで待たない。
この場面群の特異点
  • 到達点がいくつも積まれる:Ziffer 76 で開けたあと、80(Allegro maëstoso)、85(Ziemlich breit)と段が重ねられる。場面13 だけで4分41秒、続く幻想を入れれば8分を超える。頂上は一点というより高原状の台地として書かれている
  • オーボエ独奏は頂上の場面にある:Ziffer 77 の Frei im Vortrag。幻想(Ziffer 88)より前で、旧版(第1版)はこれを幻想の側に置いていた
  • Ziffer 94 の倍管は2つ分しか続かない:木管の段名に D が付いてフルート・オーボエ・クラリネットが二重編成になり、Ziffer 96 で E に戻る。厚みが増すのは幻想の内側のごく短い区間で、霧の場面(Ziffer 97)はすでに解かれた側にある
  • オルガンが入るのは Ziffer 95:底本を冒頭から追うとここが初出で、嵐の総奏を待たない。以後は余韻でも終結でも鳴り続ける
頂上の調について(資料と底本の食い違い)
解説の多くは頂上を変ロ長調とし、旧版の本ガイドもそれに従っていた。ただし底本に刷られた調号はフラット1つで、変ロ長調の調号(フラット2つ)とは一致しない。氷河(Ziffer 68)から頂上を経て幻想の手前まで、調号はフラット1つのまま動かない。ここでは調号を事実として示すに留め、主調は断定しない。調号と調は別物なので、和声が変ロ長調へ寄る箇所があること自体は否定されない。

翳り 場面 15–18

霧・翳り・哀歌・凪(Ziffer 97 – 109)
調号:調号なし → ♯3Moderato espressivo(Ziffer 100) 風の機械=Ziffer 108≈28:50 – 34:30
霧(97)
太陽が翳る(98–99)
Elegie(100–102)
嵐の前の静けさ(103–109)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Nebel steigen auf
霧が立ちのぼる
15 · Ziffer 97≈28:50 調号なし 倍管の厚み Etwas weniger breit.(やや幅を狭めて)。ヘッケルフォンとファゴット、コントラバスの低音が動き、上でホルンが持続する。Ziffer 94 で始まった木管の倍管は、その2つ後の Ziffer 96 で解かれている——段名の D が E に替わり、この場面の見出し段はすでに E になっている。参照録音で18秒。
→ 聴取:視界が濁る。音が増えているのに輪郭が減る、という書き方になっている。
Die Sonne verdüstert sich allmählich
太陽が次第に翳る
16 · Ziffer 98≈29:10 調号なし 日の出動機の陰画 ヴァイオリンの pp の上行音形が、日の出の音形を弱音で裏返す。Trp. と Fag. Cl. が下で薄く支える。
→ 聴取:日の出で聴いた形が、光を抜かれて戻ってくる。同じ音形が別の意味になる。
Elegie
エレジー
17 · Ziffer 100≈30:00 ♯3 哀歌 Moderato espressivo. 調号がシャープ3つ——日の出と同じ調号に戻る。Br. Viol. が p espr. で歌い、オルガンが下で和音を保つ。Ziffer 102 で Hb. espr. が引き継ぐ。
→ 聴取:日の出の調号がここで一度だけ戻ってくる。戻るのは光そのものではない。
Stille vor dem Sturm
嵐の前の静けさ
18 · Ziffer 103 直後≈31:40 ♯3 予兆の断片 Ziffer 103 が Tranquillo.、見出しの直後に Immer ruhiger.(つねにより静かに)。大太鼓をティンパニの撥で pp に打つ遠雷、木管の断片。Ziffer 106 Immer langsamer、107 Lebhafter。Ziffer 108 で風の機械が入る。
→ 聴取:風の機械は嵐より先に、静けさの中で回り始める。雷は遠い大太鼓、風は機械——鳴り物が別々に近づいてくる。
この場面群の特異点
  • エレジーが日の出と同じ調号:♯3。全曲で♯3 が置かれるのは日の出(Ziffer 7)とここだけで、光の場面の調号が翳りの場面へ引き継がれる
  • 霧は18秒で、滝(15秒)に次いで短い。頂上から翳りへ切り替えるための一息にあたる
  • 鳴り物の入り方が段階的:遠雷(大太鼓を撥で)→ 風の機械(Ziffer 108)→ 雷鳴の機械(Ziffer 124)と、嵐の要素が別々のタイミングで積まれる
  • 日の出動機の陰画:同じ音形を弱音・下降側の和声で置き直す。新しい動機を作らずに逆の情景を書く

嵐・下山 場面 19

Gewitter und Sturm, Abstieg(Ziffer 110 – 128)
調号:♭5(110–113a)→ ♯(114)→ ♭3(119)Schnell und heftig オルガン volles Werk雷鳴の機械=Ziffer 124≈34:30 – 38:30
突入(110–115)
下山・動機の反転(116–123)
雷鳴と退去(124–128)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Gewitter und Sturm, Abstieg
雷雨と嵐、下山
19 · Ziffer 110 直前≈34:30 ♭5 b moll 登高主題の反転既出動機の断片 Schnell und heftig.(速く、激しく)。調号がフラット5つ——冒頭・末尾の Nacht と同じ。楽器指定は Str. Orgel. で、オルガンは ff (volles Werk)。Ziffer 114 で調号が♯側へ振れ、119 Sehr lebhaft までに♭3 へ移る。123 Sehr schnell、124 で雷鳴の機械(Donnermaschine)が fff の G. Orch. u. Orgel. と共に入る。Ziffer 123 のシンバルは (mit Holzschlägeln)(木の撥で)。
→ 聴取:登りの主題が上下逆さまに鳴るのを聴き取れるか。嵐は新しい素材をほとんど使わず、ここまでの動機を砕いて組み替えている。
この場面の特異点
  • 嵐の前半は主調の調号で鳴る:Ziffer 110 から 113a まで♭5 が続き、冒頭・末尾の Nacht と同じ。額縁は末尾ではなく嵐の時点から閉じ始めている。Ziffer 114 で♯側へ振れ、119 までに♭3 へ移るので、♭5 なのは嵐の前半にあたる
  • 登高主題の反転:登り(Ziffer 12)で上行した主題を上下逆さまにして下る。動機変容がそのまま「下山」の意味になる
  • 天候の機械:風の機械(Ziffer 108)と雷鳴の機械(Ziffer 124)。鳴り始めの位置が16 Ziffer 離れており、同時に投入されるわけではない
  • 4分の嵐は、ほとんど既出動機の断片だけで組み立てられている。オルガンの全奏が加わり、音量よりも音の密度で頂点ができる

夜へ還る 場面 20–22

額縁の閉じ(Ziffer 129 – 終結)
調号:♭3 → ♭5in sanfter Extase(Ziffer 135) 8本のホルン≈38:30 – 48:39
Sonnenuntergang(129–133)
Ausklang(134–144)
Nacht(145–終結)
場面(独/和)位置調号主要動機楽譜の指示・楽器法・聴取
Sonnenuntergang
日没
20 · Ziffer 129≈38:30 ♭3 Es dur 日の出動機の対 直前の Ziffer 128 に Etwas breiter. と p maestoso。ここでホルンが8本(F管4+E♭管4)になり、Ziffer 129 に Orgel dazu.(加えてオルガン)。Ziffer 130 のトランペットとトロンボーンには (Feierlich)(荘重に)。
→ 聴取:嵐が引いたあと、金管に (Feierlich) と書き添えられる。底本のイタリア語の maëstoso は氷河(Ziffer 68)にも頂上(Ziffer 80)にも出るが、独語のこの一語が現れるのは沈む光の側である。
Ausklang
余韻
21 · Ziffer 134≈40:40 ♭3 主要動機の回想 Etwas breit und getragen.(やや幅広く、担うように)。オルガンが p で和音を敷き、Ziffer 135 に (in sanfter Extase)(穏やかな恍惚のうちに)、続いて nur Bl. und Orgel(管楽器とオルガンだけ)。参照録音で5分52秒あり、頂上に次いで長い。
→ 聴取:弦がいったん退き、管とオルガンだけの層になる。「Ausklang」は鳴り収めるという意味で、日本語の一語に置き換わらない。
Nacht
夜
22 · Ziffer 145 直前≈46:30 ♭5 b moll 夜の動機(回帰) 調号がフラット5つに戻り、Ziffer 145 に Breit.。弦は全部が (geteilt) + mit Dämpfer、Von Br. Vlc. u. C.-B. bis zum Schluß ausgehalten.(ヴィオラ・チェロ・コントラバスは終わりまで保つ)。末尾は Sehr langsam. の ppp。
→ 聴取:始まりと同じ闇に還る。ただし冒頭が20部の分割だったのに対し、ここは分割+弱音器で、同じ音階がさらに遠くから聞こえる。
この場面群の特異点
  • 額縁は同じではない:冒頭の Nacht は20部の分割弦、末尾は分割+弱音器で、低弦は終結まで音を保つ。同じ調号・同じ音階だが、鳴らし方は書き分けられている
  • Ausklang は参照録音で5分52秒あり、頂上(4分41秒)を超えて22場面の最長になる。到達より退場のほうが長い
  • 独語の (Feierlich) が金管に添えられるのは Ziffer 130。同義のイタリア語 maëstoso は氷河と頂上にも出るので、語がどちらで書かれているかを見ると差がつく
  • オルガンが最後まで残る:Ziffer 95 で入って以後、余韻でも終結でも和音を敷き続ける。管弦楽の外側にもう一層ある状態で曲が閉じる
別の見立て:調号の弧として読むと
底本で22場面の調号を実音段で並べると、三つの領域に分かれる。♯側は日の出(♯3)・滝と幻影(♯2)・花咲く野(♯4)・エレジーと嵐の前(♯3)で、光と水にあたる場面が集まる。♭側は夜(♭5)・登りと森(♭3)・小川(♭4)・高原と藪(♭3)・氷河と頂上(♭1)・嵐(♭5→♭3)・夕映えと余韻(♭3)・末尾の夜(♭5)で、地面と山塊と天候の側。そして調号を持たない領域が三つ続く——幻想・霧・太陽の翳り(場面14〜16)。
この三つ目が目を引く。臨時記号を書き分けるための足場そのものが、頂上に立った直後にだけ外れている。前後を見ると、♭側の頂上(♭1)から調号が消え、次に現れるときはエレジーの♯3——日の出と同じ調号で、光が記憶として戻る。これは本ガイドが底本の調号を数えて得た見立てで、作曲家がそう設計したという典拠はない。調号は調そのものでもなく、♯や♭の本数が多いほど遠い調だという保証もない。それでも、22場面を一つの弧として聴くときの補助線にはなる。
資料の食い違い(調・場面数・綴り)
冒頭「Nacht」の調は、Berliner Philharmoniker・Nashville Symphony・Wikipedia が変ロ短調で一致し、底本の調号(♭5)とも合う。一部の事典(en-academic)は「ロ短調」と記すが少数説で、本ガイドは採らない。場面数の数え方も資料で揺れる(両端の Nacht を含めて22とするか、別に数えて23とするか)が内実は同じで、本ガイドは22で統一する。場面8 の綴りは底本では Auf blumige Wiesen で、一般に流布する Auf blumigen Wiesen と異なる。本ガイドは底本の綴りを採り、和名は変えない。頂上の調については上の注を参照。

参考文献

  • 底本:Richard Strauss, Eine Alpensinfonie, Op. 64, Partitur. F.E.C. Leuckart, Leipzig, 1915(plate F.E.C.L. 7531/Dover 復刻・160頁)。IMSLP #20542。位置(Ziffer)・調号・テンポ標語・楽器指定・演奏指示はすべてこの版から実測した。
  • 併用:同曲ピアノ編曲(Otto Singer II 編)。F.E.C. Leuckart, München, 1914(plate F.E.C.L. 5743・64頁)。IMSLP #05047。調号の確認に用い、練習番号が総譜と全22場面で一致することを確かめた。
  • 参照録音:ルドルフ・ケンペ指揮/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、Testament SBT 1428。区分の時間目安は MusicBrainz の当該リリース(全25トラック。アルプス交響曲は 4–25 の22トラック)の長さを累積し、最近傍10秒に丸めたもの(総計 48:39)。耳による実測ではない。録音年 1966 は同ページの演奏関連情報(begin: 1966-04-27)による。
  • "An Alpine Symphony", English Wikipedia /「Eine Alpensinfonie」, German Wikipedia(22場面リスト・初演1915年10月28日・当初題 "Der Antichrist")。en.wikipedia.org / de.wikipedia.org
  • Berliner Philharmoniker, "An Alpine Symphony – Introduction"(夜の動機=変ロ短調、登高主題=変ホ長調、日の出=イ長調、額縁構造)。berliner-philharmoniker.de
  • Nashville Symphony プログラムノート(変ロ短調の額縁、山の主題、舞台裏バンダ、"Der Antichrist")。BSO(ヨーデル動機、登高主題=主題格)。The Conversation「Decoding … An Alpine Symphony」(登高主題の反転、自己引用=ツァラトゥストラ/ヘ短調交響曲)。
  • ※ 底本は小節番号を刷らないため、本ガイドの位置はすべて練習番号(Ziffer)による。調号は実音記譜の段で読んでいる(移調楽器の段は同じ響きでも別の調号を刷る)。頂上の主調は底本の調号と一般の記述が食い違うため断定していない。♭5 の分布は底本 160 頁を通読したうえでの観察による。
第2版 | 初版 2026-07-01 | 最終改訂 2026-09-08