R.シュトラウス:ドン・キホーテ Op.35
Richard Strauss: Don Quixote — Fantastische Variationen über ein Thema ritterlichen Characters(1897年作曲・1898年初演)|独奏チェロ・独奏ヴィオラと大管弦楽/約40分
区分の地図:作曲者自身が標題紙に形式を書き込んでいる——Introduzione, Tema con variazioni e Finale。
出典・底本
底本(楽譜の版):Jos. Aibl Verlag, München 1898 の初版(版番 R.2885)を Dover Publications が1979年に復刻したもの。IMSLP #18787(imslp.org。IMSLP の記載は First edition (reprint) — Munich: Jos. Aibl Verlag, 1898. Plate R. 2885. Reprinted Mineola: Dover Publications, 1979.)。本ガイドの位置・標語・拍子・調号・編成・脚注は、この94頁ぶんのスコアを通して読んで採った。ドイツ語の標語は版の綴りのまま引く(この版は表題を Charakters ではなく Characters と綴る)。位置の準拠:楽譜に印刷されている練習番号 [1]–[82] と、頁番号 195–286。この版は小節番号を刷っていないので、小節での位置は付けない——手元のスコアに印刷されていない数字より、印刷されている練習番号のほうが座標として使える。区分が練習番号ちょうどから始まる場合はその番号を、そうでない場合は挟む2つの番号を示す。頁番号は復刻版のノンブルであって、Aibl 初版単独の頁付けではない——音楽が195頁から始まり各頁下部に DON QUIXOTE の走り頁見出しが付くのは、他の交響詩と合冊にした復刻側の体裁による(練習番号のほうは Aibl の版面に由来する)。頁で引くときは Dover 版を前提にしてほしい。本ガイドは 1898 年の印刷面だけを読んでおり、現行の原典版とは照合していない——Breitkopf & Härtel から Nick Pfefferkorn 校訂の Urtext(PB 5719・144頁・ISMN 9790004216569)が出ている。本ガイドが「スコアにこう刷ってある」と言うのは初版の字面のことで、校訂上どう決着したかは別の話。校訂報告を入手できていないので、ここは未照合のまま残る。練習番号のほうは版をまたいで通用する見込みが高い——現行の演奏用パートから作られている管弦楽オーディション抜粋の公開リスト(orchestraexcerpts.com のヴィオラ・ホルン・トランペット・ファゴットの各項)が挙げる番号([14]/[26]–[34]/[48]/[57]–[58]/[59]–[62]/[64]–[66]/[67]–[69])は、本ガイドが底本で読んだ区分の位置とすべて整合した。ただし現行貸譜の出版社・版番号そのものは確認していない。
参照録音(時間目安の基準):ケンペ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン、トルトゥリエ(vc)/EMI、1973年6月・ドレスデン ルカ教会。実際に参照したのは Warner Classics「R.シュトラウス管弦楽作品全集」9枚組(0190295542511、2019年。旧番 50999 4 31780 2 5)の disc 4 で、14区分の時刻はこの盤のトラック長を順に足した値(トラック割りは MusicBrainz release c5fd4a8a-6967-4e53-9d11-08bcf70f370b、Qobuz・Discogs と1秒以内で一致)。ケンペには1958年ベルリン・フィル盤(トルトゥリエ、ヴィオラは Giusto Cappone)という別録音があるので、時刻を追試するときは取り違えないでほしい。独奏ヴィオラは Max Rostal とクレジットされるが、本来ヴァイオリニストのため資料により「ヴァイオリン」表記に割れる(未解決)。「≈mm:ss」は本盤での目安であって作品の事実ではない。時間目安を付けたのは14の区分の先頭だけで、区分の内側の行には付けていない——本盤のトラック割りがちょうど14の区分に対応しており、そこから読み取れるのは各区分の開始時刻までだから。内側の時刻は計算で出せるが、それは実測ではないので書かない。この盤はサンチョの Maggiore を独立したトラックに割っており、区分との対応が取りやすい。
挿話の標題は、スコアには印刷されていない。これは本ガイドが底本を通読して確かめた事実で、管弦楽総譜にあるのは表題・区分名とドイツ語のテンポ/性格語だけ。では「風車の冒険」「羊の群れとの戦い」はどこから来たのか——Finck (1917, pp.190–191) は、総譜には標題が付かなかったがピアノ編曲版には手がかりがあり、以下の指示はシュトラウス自身が与えたものだ、と書いている。本ガイドはこの来歴をFinck の証言として扱い、標題の文言の著者性そのものを独自に確認したわけではない。公認された出所の一覧は Werbeck 1996, pp.543–544 にあるとされるが、これは Weaver 2012 の注を通した間接参照で、原典は未確認(下の参考文献も参照)。本ガイドはスコアに印字のある語(ドイツ語のテンポ・性格語、Don Quixote, der Ritter von der traurigen Gestalt、Maggiore (Sancho Panza))と、スコア外の標題とを区別して表示する。
本文で言及する論:Michael Kennedy(Hyperion CDA67960 解説, 2013)/Anselm Cybinski(ベルリン・フィル)/Henry T. Finck(1917)/Andrew H. Weaver(2012・ドゥルシネア主題の小節番号)/Germán Marcano。分析者・版により見解が分かれる箇所は本文に両論を併記する。
この稿がしていないこと。各変奏について示すのは、位置・拍子・調号・編成・スコアの指示語・場面までで、主題の音型がどう変形されたかを音符の水準で追う作業はしていない。標題紙が TEMA CON VARIAZIONI と単数形で書くのに対し、実際に提示される材料は複数(序奏だけで Kennedy は三つ数え、Cybinski は「騎士的性格の主題」という呼び名自体が誤解を招くと言う)で、どれを原形と見るかが分析者によって違う。その分岐を裁く作業は、小節単位で全曲を追った文献——とくに Del Mar の Critical Commentary——を読んでからでないとできない。本ガイドはそれを参照できていないので、変奏技法の記述は空白のまま残してある。
曲全体の俯瞰(序奏+主題+10の変奏+フィナーレ)
| 区分 | 位置 | 調号 | 拍子 | スコアの標語(原語) | 場面と聴きどころ |
|---|---|---|---|---|---|
| 序奏 | p.195 / 冒頭≈0:00 | ♯2 D dur | 4/4 | Introduction. Mässiges Zeitmass. Metr.♩=96./(ritterlich und galant.) | 騎士道物語を読みふけって正気を失うまで。木管の礼儀正しい主題に独奏ヴァイオリンとオーボエの歌が加わり、やがて主題どうしが重なって濁っていく。全曲の約7分の1をここに使う。 |
| 主題 | p.215 / [12]–[13]≈5:53 | ♭1 d moll | 4/4 | (Don Quixote, der Ritter von der traurigen Gestalt.) Mässig. (Metr.♩=80.) | 独奏チェロが初めて出て、これ以後この楽器がドン・キホーテになる。「憂い顔の騎士」の名がスコアに刷り込まれている。 |
| Maggiore | p.216 / [14]≈6:52 | ♭1 F dur | 4/4 | Maggiore. (Sancho Panza) Metr.♩=96. | バスクラリネット・3本のファゴット・テノールチューバがおしゃべりな旋律を出し、4小節後に独奏ヴィオラが引き取る。以後サンチョはこのヴィオラ。 |
| 変奏 I | p.217 / [16]–[17]≈7:59 | ♭1 | 4/4 | Variation I. Gemächlich. (Metr.♩=84.) | 出立と風車の冒険。独奏チェロだけが 12/8 でのんびり揺れ、周りは 4/4 のまま。突入と墜落は一瞬で終わる。 |
| 変奏 II | p.224 / [21]–[22]≈10:25 | ♯2 D | 4/4 | Variation II. (kriegerisch) Metr.♩=116. | 羊の群れを大軍と見て突撃する。3本の独奏チェロの斉奏で始まり、管楽器の「羊」が有名。奏法はスコアの脚注が指定している(下の特異点)。 |
| 変奏 III | p.229 / [25]–[26]≈12:00 | ♯2→♯6→♭1 | 4/4(3/4 と交替) | Variation III. mässiges Zeitmass (je nach dem Grundcharakter der verschiedenen Themen reich zu modificiren.) | 騎士と従者の対話。8分を超える全曲最長の区分で、変奏というより二人の議論そのもの。途中で嬰ヘ長調に開き、ドゥルシネアの幻が最も明るく鳴る。 |
| 変奏 IV | p.247 / [42]–[43]≈20:10 | ♭1 | 4/4 → 𝄵 | Variation IV. etwas breiter. (Metr.♩=96.) | 贖罪の行列を襲う。教会風の旋律が近づき、打ちのめされた騎士が伸びる低音の上に横たわる。 |
| 変奏 V | p.251 / [48] の4小節前≈21:56 | ♭1 | 4/4 | Variation V. sehr langsam (Metr.♩=50.)/sehr langsam, frei declamirend, sentimental im Vortrag. | 武器の夜番。独奏チェロの独白で、スコアが「自由に朗誦し、感傷的に」と指定している。ドゥルシネアの旋律が何度も歌い出されては途中で止まる。 |
| 変奏 VI | p.253 / [52]≈25:46 | ♯1 G | 2/4+3/4 | Variation VI. schnell (M.♩=132.) | ドゥルシネアとの対面。田舎娘を貴婦人と言いくるめられる場面で、タンブリンの入る粗野な踊り。2拍子と3拍子が同じ小節に書き分けられている。 |
| 変奏 VII | p.257 / [57]≈26:54 | ♭1 | 8/4 | Variation VII. ♩ ein wenig ruhiger als vorher. | 空中の騎行。ヴィントマシーン、ハープのグリッサンド、フルートのフラッタータンギング。低音は一つの音に留まったままで、要するに二人は飛んでいない。 |
| 変奏 VIII | p.262 / [58]–[59]≈27:57 | ♭1 F dur | 6/8 | Variation VIII. ♪=♪ vorher (Gemächlich) | 魔法の小舟での不運な航行。6/8 のバルカロールで、転覆したあと感謝の祈りになる。 |
| 変奏 IX | p.270 / [63]–[64]≈29:55 | ♭1 | 4/4 → 3/2 | Variation IX. Schnell und stürmisch. | 魔法使いと思い込んだ二人の僧への攻撃。2本のファゴットだけが延々と続く、聴いてすぐ分かる場面。 |
| 変奏 X | p.271 / [66]≈30:59 | ♭1 | 4/4 | Variation X. Viel breiter./Viel schneller./beinahe doppelt so langsam. | 白い月の騎士との決闘と敗北。大太鼓が加わって一度膨れ上がり、負けたあとテンポがほぼ半分に落ちて帰路になる。 |
| フィナーレ | p.282 / [76]–[77]≈35:31 | ♯2 D dur | 4/4 | Finale. Sehr ruhig./(etwas langsamer als der Anfang der Introduction) | 正気に返って死ぬ。ニ長調の調号がここで戻る。独奏チェロの最後の下降は点線のポルタメントで書かれ、pp のまま消える。 |
曲を貫くもの:楽器が人物を担う。独奏チェロがドン・キホーテ、独奏ヴィオラがサンチョという役割分担が、変奏のたびに調も音型も性格も変わるなかで筋を追える手がかりになる。ただしこれは排他的な対応ではない。サンチョの主題はバスクラリネットとテノールチューバが代役を務め、独奏ヴァイオリンが騎士の側を引き受ける場面があり(Kennedy)、変奏 VI では独奏ヴィオラがドゥルシネアの主題を出し(Weaver)、変奏 VIII では主導声部がオーボエと独奏ヴァイオリンに移る(スコアの脚注)。「この楽器が鳴れば必ずこの人物」と読むと、かえって取りこぼす。だから変奏といっても、変わるのは主題の音そのものよりその主題が置かれる状況のほうだ(Cybinski)。もうひとつの糸がドゥルシネアの主題で、序奏でオーボエが出したあと、変奏 III で嬰ヘ長調に開いて全曲でここだけ完結した形をとり、変奏 V では何度も歌い出されては途中で切れ、フィナーレで独奏チェロが伴奏なしに前半だけを返す(小節位置は Weaver 2012 による)。シャープ2つの調号がフィナーレで戻り、そのまま終曲まで保たれることが、序奏と終結の額縁を支えている(同じ調号は変奏 II・III の冒頭にも現れるが、そこには落ち着かない)。
10の変奏の一覧
Var. I
[16]–[17]
風車/12·8のチェロ
[16]–[17]
風車/12·8のチェロ
Var. II
[21]–[22]
羊/Zungenschlag
[21]–[22]
羊/Zungenschlag
Var. III
[25]–[26]
対話/Fis dur・最長
[25]–[26]
対話/Fis dur・最長
Var. IV
[42]–[43]
巡礼の行列
[42]–[43]
巡礼の行列
Var. V
[48] 手前
夜番/独白
[48] 手前
夜番/独白
Var. VI
[52]
ドゥルシネア/2·4+3·4
[52]
ドゥルシネア/2·4+3·4
Var. VII
[57]
空中/8·4・風の機械
[57]
空中/8·4・風の機械
Var. VIII
[58]–[59]
小舟/6·8 バルカロール
[58]–[59]
小舟/6·8 バルカロール
Var. IX
[63]–[64]
僧/2本のファゴット
[63]–[64]
僧/2本のファゴット
Var. X
[66]
決闘と敗北/帰路
[66]
決闘と敗北/帰路
※ 位置はスコアの練習番号。標題(風車・羊など)はスコアに印字がなく、シュトラウス自身の言葉としてピアノ編曲版・公認解説の側で公表されたもの。
主要主題・動機(凡例)
騎士の主題(木管)
冒頭、フルートとオーボエが3連符を含む上向きの音型で出す。スコアには3小節目に ritterlich und galant(騎士らしく、優雅に)と書かれ、弦の pizz. がそれを支える。表題の言う「騎士的性格の主題」がこれ。バーンスタインが「骨格は6つの音」と説明し、その素のかたちは曲の終わりまで出てこないと述べたのもこの主題で、台本は「曲のいちばん最初に聴こえる」と続ける(表記は A, B, F, D, F, A)。ただし実際の主題は一つではなく複数の集まりで、ケネディは序奏に三つ数える。
礼節の主題(ヴァイオリン)
序奏の二つめ。ケネディはヴァイオリンに、インディアナポリス響のプログラムノート(Tobias)は第2ヴァイオリンと独奏クラリネットに割り当てており、資料で帰属が割れる。序奏が木管で始まるという点では両者一致。
ドゥルシネアの主題(オーボエ)
序奏の三つめで、オーボエが出す理想化された女性像。のちに正式にドゥルシネアの主題になる。変奏 III で嬰ヘ長調に開き、変奏 V では前半だけが繰り返し歌い出されて完結せず、フィナーレで独奏チェロが伴奏なしに前半だけを返す(Weaver 2012)。
ドン・キホーテ(独奏チェロ)
主題(p.215)で初登場。スコアには (Don Quixote, der Ritter von der traurigen Gestalt.) と刷られ、ニ短調・Mässig ♩=80。独奏チェロが担うのは、序奏で木管が出した「騎士的性格の主題」の変形。バーンスタインの6音の説明(→ 左の凡例)はその主題についてのもので、独奏チェロのこの提示そのものを指してはいない。
サンチョ・パンサ(独奏ヴィオラ)
Maggiore(p.216・[14])で、バスクラリネット・3本のファゴット・テノールチューバがまず出し、4小節後に独奏ヴィオラが引き取る。以後ほぼ常にヴィオラが担う(Finck)。細かく刻む音の連なりに、不器用に大きく跳ぶ音程が挟まる。
主題の数について
Finck (1917) は、シュトラウスの意を汲んだ解説を書いた Herwarth Walden(Don Quixote, op. 35, erläutert, Musikführer 148, Berlin: Schlesinger, 1900)がこの曲に53の主題を数えたと伝えている。本ガイドは Walden の原典を見ておらず、数え方の規準も分からないので、これは Finck の報告として読んでほしい(権威として使える数字ではない)。上の5つは筋を追うのに要るものだけで、網羅ではない。
序奏 — 狂気が兆すまで
主題群の提示と、その崩壊
騎士の主題(木管)
礼節の主題・独奏ヴァイオリン
ドゥルシネアの幻(オーボエ)
主題が重なり、濁っていく
断ち切れる
※ 幅は練習番号の間隔にごく大まかに比例させた概略で、正確な尺ではない。
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 騎士の主題の提示 | p.195 / 冒頭〜[1]≈0:00 | D dur | 騎士の主題 | フルートとオーボエが3連符を含む音型を出す(Mässiges Zeitmass. Metr.♩=96.)。3小節目で弦が pizz. で入り、そこにスコアは ritterlich und galant と書き込んでいる。すぐ poco rit. Metr.♩=88 がかかって、速度が一段落ちる。 最初の20秒に出るこの木管の主題が、表題の言う「騎士的性格の主題」。まずこれを覚えると、以後の変奏で何が変形されているかが追える。 |
| 礼節の主題と独奏ヴァイオリン | p.196–198 / [1]–[4] | D dur | 礼節の主題 | [1]rit. — a tempo、(ausdrucksvoll)、sehr ruhig と指示が細かく替わる。[3]etwas lebhafter でいったん動き、[4]で früheres Zeitmass. (sehr ruhig) に戻る。ここでスコアに Erste Solo Viol. の段が現れ、独奏ヴァイオリンが立つ。 → 聴取:テンポが数小節ごとに揺れる。この落ち着かなさ自体が、読書にのめり込んでいく男の描写として書かれている。 |
| 夢見るように | p.199–200 / [5]–[6] | 転調 | 礼節の主題 | ホルンと独奏ヴァイオリンの上に (träumend)(夢見るように)と poco calando。3/2 の小節が一つだけ挟まって拍子が伸びる。[5]im Zeitmass. では第1フルート・第1クラリネットと独奏ヴァイオリンが旋律を持つ。[6]で appassionato、イングリッシュホルンの段が加わる。 独奏ヴァイオリンとフルートの絡み合いが、この区間のいちばん静かな部分。ケネディは序奏の三つの主題を「木管=優雅/ヴァイオリン=礼節/オーボエ=女性の理想化(のちのドゥルシネア)」と分けるが、その三つめが序奏のどこに出るかを練習番号で特定した資料は見つからなかったので、本ガイドは位置を書かない。 |
| 主題が重なり、濁る | p.202–212 / [7]–[11] | 半音階的に不安定 | 全主題 | [7](sehr energisch)。ここからバスクラリネット、6本のホルン、シンバルと編成が増えていく。[9]でトランペットが in D から in F に持ち替わり、響きの色が変わる。主題どうしが同時に鳴らされ、和声の当たりがきつくなる。 ここが「正気を失う」場面。新しい主題が出るのではなく、すでに出た主題が互いに衝突して形を失っていく。何が起きているか分からなくなる感じは、書かれたとおりの効果。 |
| 断ち切れる | p.213–214 / [12]– | → ♭1 へ | – | [12]の手前で accelerando、[12] でハープが ff glissando を一撃。そのあと ritard. がかかり、最後の小節は全楽器がフェルマータで止まる。複縦線のあと、engraver は次頁の調号(フラット1つ)を先に刷っている。 → 聴取:ハープのグリッサンドと、そのあとの完全な停止。ここで序奏が終わり、独奏チェロが出てくる。5分以上かけた助走がここで切れる。 |
特異点
- 序奏だけで全曲の約7分の1を使う。練習番号 [1] から [12] まで、参照録音で6分近い。変奏曲と名乗る作品で、主題が出てくる前にこれだけの時間を費やすのは異例で、序奏の役目が「主題の準備」ではなく「主題が壊れる過程を先に見せること」になっている。
- 作曲者は形式をイタリア語で明示した。標題紙には表題のすぐ下に ( INTRODUZIONE, TEMA CON VARIAZIONI E FINALE ) と刷られている。「幻想的変奏曲」という副題と合わせて、シュトラウス自身が形式の枠を宣言していることになる。本ガイドがこの枠を主分析に採る根拠もそこにある。
- トランペットの調が途中で替わる。冒頭は in D、[9] のあたりから in F。同じ楽器の音色がわずかに変わり、序奏後半の濁りに寄与している。編成表(Besetzung)は「3 Trompeten」としか書かないので、これはスコアを追わないと見えない。
- 初版のスコアには挿話の標題が一つも印刷されていない。「騎士道物語を読んで正気を失う」という説明はシュトラウス自身の言葉として伝わるが、それが載ったのはピアノ編曲版と公認の解説の側で、総譜が読者に与えるのはドイツ語のテンポ語だけ。この曲を「標題音楽」と呼ぶとき、標題がどこにあるかは案外ややこしい。
主題と変奏 I・II — 二人の肖像、風車、羊
主題の提示と、最初の二つの冒険
主題(DQ・独奏チェロ)
Maggiore(サンチョ)
変奏 I・風車
変奏 II・羊
※ 幅は参照録音での各区分の演奏時間に比例。
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 主題(ドン・キホーテ) | p.215 / [12]–[13]≈5:53 | d moll | DQ | スコアには区分名として Thema の語がなく、代わりに (Don Quixote, der Ritter von der traurigen Gestalt.)(憂い顔の騎士)と刷られ、その下に Mässig. (Metr.♩=80.)。旋律は Violonc. (Solo) が (hervortretend)(際立たせて)で歌う。伴奏はイングリッシュホルン、トロンボーン、バステューバの pp。 独奏チェロの最初の一声。以後この楽器が騎士を代表するが、独占はしない(独奏ヴァイオリンが役を引き取る場面もある——Kennedy)。この主題は序奏の「騎士的性格の主題」の変形で、バーンスタインの言う6音の骨格(凡例参照)が素のかたちで出るのは曲の最後だけ。 |
| Maggiore(サンチョ・パンサ) | p.216 / [14]≈6:52 | F dur | SP | スコアに (Sancho Panza) と Maggiore.、Metr.♩=96.。旋律はまずバスクラリネット・3本のファゴット・テノールチューバが刻み、4小節後に Bratsche. (Solo) が mf で引き取る。[15]で (lebhaft)。 低い管楽器の饒舌なおしゃべりが、独奏ヴィオラに渡る瞬間を聴く。細かく刻む音の連なりに、不器用に大きく跳ぶ音程が混じる。以後サンチョはこのヴィオラで、テノールチューバとバスクラリネットが時々代役を務める。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 I・出立 | p.217 / [16]–[17]≈7:59 | ♭1 | DQSPドゥルシネア | Variation I. Gemächlich. (Metr.♩=84.)。独奏チェロが mf (mit breitem Strich)(幅広い弓で)と指示され、独奏チェロだけが 12/8、周りは 4/4 のまま進む。三つの主題がここで初めて同時に鳴る。 チェロだけ拍が違う。周りの拍と噛み合わないゆったりした揺れが、馬に乗って出ていく足取りになっている。理屈を知らなくても、何かがずれている感じは聴こえる。 |
| 風車への突入 | p.218–223 / [17]–[21] | 転調 | DQ | [19]で poco accelerando・Metr.♩=100、[20]ではティンパニに (mit Holzschlägel)(木のばちで)、ハープに ff glissando、弦の一部は col legno。 → 聴取:木のばちのティンパニと col legno の乾いた音。突撃から墜落までは驚くほど短く、あっけなく終わる。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 II・突撃 | p.224 / [21]–[22]≈10:25 | D | DQ | Variation II. (kriegerisch) Metr.♩=116.。3本の独奏チェロが ff の3連符で斉奏して始まる。クラリネットには muta in Clarinette in Es!(変ホ管に持ち替え)。 → 聴取:独奏チェロが1本でなく3本になるのはここだけで、突撃の勢いがそのぶん厚い。 |
| 羊の群れ | p.224–228 / [22]–[25] | D | – | [22]langsam で管が奇妙な音を出す。ここに脚注が付いていて、「管楽器でトレモロと記した箇所はすべて Zungenschlag(舌打ち=フラッタータンギング)で演奏すること」と指定される。ヴィオラは6プルトに分かれて弱音器付きのトレモロ。[23]sempre ppp senza cresc.、p.226 で Wieder doppelt so schnell.(また倍の速さで)。[25]etwas ruhiger werdend から langsamer! で複縦線。 これが有名な「羊」。耳には濁った不協和音がぶるぶる震えて聴こえる。ロラン(1900年パリ)は聴衆が「羊の鳴き声に激昂した」と日記に書き、シカゴの新聞は「本物の羊を連れてきて合図で鳴かせればよい」と皮肉った。 |
特異点
- Thema という語がスコアに無い。区分名として印刷されているのは人物の名(Don Quixote, der Ritter von der traurigen Gestalt)だけで、「主題」という形式語は使われていない。逆に次の区分には Maggiore という古典的な変奏曲の用語が置かれる。形式語と人物名が同じ高さで並ぶのが、この作品の書かれ方をよく表している。
- Maggiore が人物の登場と一致する。変奏曲で長調に転じる部分を Maggiore と呼ぶのは古い習慣だが、ここではその転換がそのままサンチョの登場になっている。形式の語彙が人物描写に転用されていて、単なる見出しではない。
- 羊の脚注は「管楽器」全体を指す。この奏法をめぐって資料は割れていて、英語版 Wikipedia は「金管のフラッタータンギング」、ケネディは「木管と金管」と書く。底本の脚注は alle in den Bläsern als … notirten Stellen——「管楽器において」であって金管に限っていない。ケネディ側の読みがスコアに合う。
- 変奏 I の独奏チェロだけが 12/8。周囲が 4/4 のまま進むなかで、独奏だけ別の拍節で書かれている。人物と伴奏が同じ拍を共有しないという書き方は、このあとも形を変えて出てくる。
別の見立て:ロマン主義への批判として読むと
本ガイドは変奏 III の嬰ヘ長調を「いちばん明るく開く場所」、フィナーレのニ長調を「正気の回復」として素直に受け取っている。この読み方そのものを疑う立場がある。Weaver (2012) は、この作品をセルバンテスの主人公への共感的な肖像ではなく、ドイツ・ロマン主義の伝統への告発であり、シュトラウス自身の反形而上学的な作曲上の宣言として読む(同論文の要旨による)。この読みでは、ドゥルシネアをめぐる陶酔も英雄的な決闘も、素直に味わうべき充足ではなく揶揄の対象になる。シュトラウス自身が「変奏形式を不条理なところまで押し進め、悲喜劇的な揶揄を浴びせた」と述べている(Kennedy)ことは、この側の読みを支える。本ガイドは同論文の本文を読めていないので、位置表としてしか使っていない——ただし借りた表の出どころがこういう論であることは、明記しておく必要がある。
別の見立て:協奏交響曲として読むと
主分析は作曲者自身が示した「序奏+主題と変奏+フィナーレ」だが、独奏チェロと独奏ヴィオラの扱いに注目すると、この曲は二つの独奏楽器を持つ協奏交響曲(シンフォニア・コンチェルタンテ)としても読める。ケネディもチビンスキーも、その近さを指摘している。変奏の並びを「主題の加工」ではなく「二人の登場人物のやりとり」として聴くと、なぜ変奏 III だけが8分もかかるのか、なぜ変奏 V が独白なのかが腑に落ちやすい。ただしこれはこの語彙で読むとこう見えるという分析者の見立てであって、作曲者がそう設計したという意味ではない。むしろ逆向きの証言もあり、ケネディによればシュトラウスは独奏部をオーケストラの首席奏者が弾くことを想定していた。マルカーノは、この曲が実際には「交響詩からチェロ協奏曲へ」変質してしまったと批判し、独奏者を前に出す配置が複数のチェロ群の書法と独奏ヴィオラとの掛け合いを壊すと指摘している。
独奏チェロ=主役
主題で登場し、変奏 V で長大な独白を持ち、フィナーレの最後の歌を担う。協奏曲の主役の配置に近い(ただし曲を閉じるのは独奏チェロが休符に入ったあとの弦の pizz. と管の和音)。独奏ヴィオラ=第2の独奏
Maggiore で登場し、変奏 III で騎士と延々と議論する。二重協奏曲の相方の役回り。ただし管弦楽は伴奏でない
羊・風・舟・行列は管弦楽の側が描く。協奏曲として聴くだけでは、この曲の半分が抜け落ちる。変奏 III — 騎士と従者の対話
全曲最長の区分。変奏というより議論
対話が始まる
議論が熱を帯びる
嬰ヘ長調・ドゥルシネアの幻
現実へ引き戻される
※ 幅は練習番号の間隔に大まかに比例させた概略。
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 対話の始まり | p.229 / [25]–[26]≈12:00 | ♯2 | SPDQ | 標語は mässiges Zeitmass (je nach dem Grundcharakter der verschiedenen Themen reich zu modificiren.)——「さまざまな主題のそれぞれの性格に応じて豊かに変化させること」。つまり一定のテンポで通すなという指示。独奏ヴィオラが饒舌に語り出し、独奏チェロが grazioso で応じる。第1ヴァイオリンの1プルトには Solo. p glissando。 まずヴィオラ(サンチョ)が長く喋る。チェロ(騎士)が短く返す。この長短の非対称が、そのまま二人の関係になっている。 |
| 議論が熱を帯びる | p.230–234 / [27]–[33] | ♯2 → ♭1 | SP | [27]accelerando。ここから 3/4 と 4/4 が複縦線ごとに入れ替わり、拍子が落ち着かなくなる。p.231 で früheres Zeitmass.、[29]etwas drängend(やや急き込んで)と lebhaft、そこで調号がフラット1つに変わる。[32]–[33]でトライアングル・タンブリン・小太鼓が加わる。 → 聴取:拍子が数小節ごとに切り替わる。話がまとまらず、相手の言葉に食い気味にかぶせていく感じが拍節そのもので書かれている。 |
| 騎士が遮る | p.235–237 / [34]–[35] | ♭1 | DQ | [34]で第1ヴァイオリンに sehr heftig(きわめて激しく)。6本のホルン、3本のトランペット、3本のトロンボーンが総出になり、チェロは全員がプルトごとに分かれる。[35]のあと複縦線で調号がシャープ6つに変わる。 → 聴取:いちばん荒い一撃。そのあと音楽が急に静まり、遠い調へ移る。この落差が次の場面の準備になっている。 |
| 嬰ヘ長調・ドゥルシネアの幻 | p.238–243 / [36]–[39] | Fis dur | ドゥルシネア | Viel langsamer. (Metr.♩=76.)。ホルンが in E に持ち替わり、鈴(Glöckchen)が加わる。(zart, ausdrucksvoll)、(sehr zart)、(immer sehr weich) と、柔らかくという指示が続く。[39]で sehr breit。 この曲でいちばん明るく開く場所。調号が♯6という遠い調で、騎士がサンチョにドゥルシネアの傍らの楽園を語って聞かせる場面とされる。Weaver によれば、ドゥルシネアの主題が全曲でここだけ完結した形をとるのがこの箇所(mm.349–73、Weaver 自身の数えによる小節番号)。ほかの場所ではこの主題はいつも途中で切れる。ただし Weaver の論文は有料で本文を読めておらず、本ガイドが依拠したのはその一覧表の再録である。「完全終止」という和声上の主張なのか「主題が完全な形で提示される」という意味なのか、原文の語で確かめられていない——本ガイドは後者の弱い読みを採る。 |
| 現実へ引き戻される | p.244–246 / [40]–[42] | → ♭1 | SP | [41](immer ruhiger werden) でいったん鎮まったあと、[42]で lebhafter. と (wütend)(激怒して)。調号が戻り、次の変奏へなだれ込む。 → 聴取:幻から現実への切り替えが乱暴。「激怒して」の一語が、対話が物別れに終わったことを示している。 |
特異点
- 独奏ヴィオラは弦を緩めて弾く。この変奏の冒頭、スコアの Solobratsche に脚注が付き、C-Saite nach h herunterstimmen——C線をロ音まで下げよ、と指示される。楽器の一番低い弦を半音下げるスコルダトゥーラで、サンチョの声域を一段沈ませるための処置。スコアは下げよとしか書かず、いつ戻すかを書いていない。この曲は首席ヴィオラのオーディション定番なので実務側に蓄積があり、ナショナル交響楽団の首席奏者ダン・フォスターは「下げる場所は明らかだが、C に戻す場所には選択肢がある。推奨は [28] まで待つこと」と書く——数小節ぶんスコルダトゥーラの運指を考える手間は増えるが、和声がまだ曖昧なところで慌てて巻き戻して音程を確かめ、前の場面の流れを乱すよりよい、という理由(Foster 2002)。
- 変奏 III の内部は、朗誦と詠唱に割れる。同じフォスターは、変奏の頭からヘ長調へ転じるまで([29] の前後)をレチタティーヴォとして、歌ではなく喋るように、多くの停止と再開を伴って弾くべきだと言い、そのあとをアリア——サンチョがようやく議論を引き取る場面——と呼ぶ。[29] の6・8・10小節目にヴァイオリン(=騎士)が挟む合いの手は、その口を挟む試みが封じられていく過程で、ヴィオラの長い連続は [33] の後にようやく終わる。奏者側から見た区分の割り方として、本ガイドの表より細かい。
- 変奏 III だけが桁違いに長い。参照録音で8分10秒。単独で全曲の約5分の1を占め、10の変奏のうち2番目に長い変奏 X(4分32秒)の1.8倍にあたる(残り9変奏の合計は19分22秒なので、その4割強という比率)。練習番号17個ぶんを使い、拍子・調・テンポがそのなかで何度も変わる。「変奏」という語で想像するものからいちばん遠く、実質は自由な場面。
- 嬰ヘ長調は全曲でここだけ。調号が♯6まで行くのはこの一箇所で、前後はフラット1つかシャープ2つの世界にいる。いちばん現実から遠い調が、いちばん現実味のない話(ドゥルシネアの楽園)に割り当てられている。なお、この輝かしい嬰ヘ長調の場面を変奏 V(夜番)と取り違える記述をときどき見かけるが、両者は別物。
- 編成表に無い楽器が鳴る。嬰ヘ長調の場面(p.238 以降)には Glöckchen(小さな鈴)の段が独立して立ち、音程を持った音符が書かれている。ところがスコア巻頭の編成表(Besetzung des Orchesters)にこの楽器は載っていない——打楽器として挙がるのはティンパニ・シンバル・大太鼓・小太鼓・トライアングル・タンブリン・ヴィントマシーンだけ。出回っている編成リストがこの楽器を挙げたり挙げなかったりするのは、たぶんこれが理由。
変奏 IV–VII — 巡礼、夜番、幻のドゥルシネア、空中の騎行
短い変奏が四つ。性格の落差がいちばん大きい区間
IV 巡礼の行列
V 武器の夜番
VI ドゥルシネア
VII 空中の騎行
※ 幅は参照録音での各変奏の演奏時間に比例。変奏 V だけが際立って長い。
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 IV・行列が近づく | p.247 / [42]–[43]≈20:10 | ♭1 | DQ | Variation IV. etwas breiter. (Metr.♩=96.)。ホルンが in E から (F) に戻る。p.248 で etwas schneller. (𝄵) Metr.𝅗𝅥=54. と、拍の取り方が2つ振りに変わる。 教会風の、歩くような旋律が近づいてくる。これが贖罪の行列で、騎士はそれを「囚われの貴婦人を運ぶ一行」と見て突っ込む。 |
| 打ちのめされる | p.249–250 / [44]–[45] | ♭1 | DQSP | タンブリンとシンバルが入り、p.250 には ff aushalten!(ff で保て)。そのあと音楽が急に落ちる。 → 聴取:盛り上がりが一撃で断ち切られる。倒れた騎士の上でサンチョが嘆く。伸ばされた低音の上に、独奏チェロが横たわったまま動かない。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 V・独白 | p.251 / [48] の4小節前≈21:56 | ♭1 | DQドゥルシネア | Variation V. sehr langsam (Metr.♩=50.)。独奏チェロの段にはさらに sehr langsam, frei declamirend, sentimental im Vortrag.——「きわめて遅く、自由に朗誦するように、演奏は感傷的に」と書かれている。第4ホルンが zart ausdrucksvoll で寄り添い、他のチェロは弱音器付き。 この曲でいちばん「協奏曲らしい」場所。スコアが奏者に感傷的であれと明示的に求めているのは珍しい。夏の夜、武具の傍らで見張りに立ち、ドゥルシネアに思いを述べる場面とされる。 |
| カデンツァ風に | p.252 / [49]–[50] | 転調 | ドゥルシネア | erstes Zeitmass. のあと accelerando、molto rit. e dim.、そして quasi cadenza in tempo; ♩ = wie vorher.。ハープに glissando (Scalen)、独奏チェロに (sehnsüchtig)(憧れをこめて)と molto appass.。 ドゥルシネアの旋律が何度も歌い出されては、途中で切れる。Weaver の数えでは、この変奏に4回出るドゥルシネア主題はすべて前半だけで終わり、一度も完結しない。届かない相手を歌っているという書き方になっている。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 VI・粗野な踊り | p.253 / [52]≈25:46 | G | SPドゥルシネア | 直前の複縦線に schnell M.♩=132. が置かれ、そのあと [52] Variation VI. が始まる。拍子は 2/4 と 3/4 が同じ小節に併記され、点線の内部小節線で分けられる。オーボエが3度で田舎びた旋律を出し、タンブリンが入る。[53]noch schneller、そのあと mässiger。 拍が2と3に割れているので、踊りがどこか不格好に聴こえる。サンチョが行き会った田舎娘を「あれがドゥルシネアです」と言いくるめる場面。Weaver によればここでは独奏ヴィオラが本物のドゥルシネアの主題を出し、それが偽のドゥルシネアの旋律と同時に鳴る。 |
| 幻滅と走り出し | p.255–256 / [54]–[56] | G | DQ | immer 2/4(以後ずっと2拍子)で拍が揃い、テンポが上がっていく。[56]の系の終わりで複縦線と 8/4 の予告。 → 聴取:ここから次の変奏への継ぎ目が切れずに続く。拍子が 8/4 に変わるのが合図。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 VII・飛行 | p.257–261 / [57]–[58]≈26:54 | ♭1 | DQ | [57] Variation VII. ♩ ein wenig ruhiger als vorher.、8/4。フルート2本に Flatterzunge.(フラッタータンギング)、ハープに glissando、ティンパニに長いトレモロ。楽器欄には Windmaschine. の段が立ち、脚注に Womöglich unsichtbar aufzustellen!——「可能なら見えない場所に設置すること」。 低音は動かない。木管とハープと風の機械が上で大騒ぎするあいだ、ティンパニと低弦は一つの音(D)を保ち続ける。目隠しされた二人は木馬に乗っているだけで、実際には地面から一歩も離れていない——それがこの持続音の意味だという読みは古く、Finck (1917, p.195) が、シュトラウス公認の解説者 Walden の解釈として「低弦が一つの音で執拗にトレモロを続けるのは、二人が実際には固い地面を離れなかったという意味に取れる」と伝えている。バーンスタインもケネディも同じ読みを繰り返している。 |
特異点
- 風の機械には「見えないように置け」と書いてある。底本 p.257 の脚注 Womöglich unsichtbar aufzustellen!。舞台裏に出せという指示ではなく、客席から見えない置き方をせよという指示で、聴衆に音の出どころを悟らせない意図が読める。ヴィントマシーン自体は巻頭の編成表にもきちんと載っており、思いつきの追加ではない。
- 飛んでいないことを、低音が証言している。この変奏の全体がひとつの持続音の上に載っている。派手な効果音の下でいちばん重要なのが「何も動いていない」という事実であるという、逆立ちした書き方になっている。
- 変奏 VI の標語をめぐって資料が割れる。ベルリン・フィルのプログラムノート(Cybinski)は変奏 VI を「テンポ標語なし」として一覧に載せている。底本には schnell (M.♩=132.) が確かに印刷されているが、それは変奏 VI の見出しの前、直前の複縦線のところに置かれている。一覧から漏れたのはおそらくこの配置のため。
- 変奏 V だけが長い。この4つの変奏のうち、IV・VI・VII が参照録音でどれも1〜2分なのに対し、V は4分近い。短い挿話が並ぶなかに独奏チェロの長い独白が一つ置かれていて、そこだけ時間の流れが違う。
変奏 VIII–X — 小舟、僧、決闘
冒険の終わりと、敗北による帰還
VIII 魔法の小舟
IX 二人の僧
X 決闘・敗北・帰路
※ 幅は参照録音での各変奏の演奏時間に比例。
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 VIII・バルカロール | p.262 / [58]–[59]≈27:57 | F dur | DQSP | 前の 8/4 が1小節フェルマータで止まり、複縦線のあと Variation VIII. ♪=♪ vorher、弦には (Gemächlich)。6/8 の舟歌になる。脚注に Bassclarinette, Fagotte, Hörner, Violoncelle müssen so leise sein, dass die führende Stimme (Oboe und Solovioline) mühelos hervortritt.——主導するのはオーボエと独奏ヴァイオリンで、他はそれが苦もなく浮き出るほど弱く、と指定される。 ここまでの騒ぎのあとで、急にゆらゆらした舟歌になる。6/8 の揺れが水の動き。主役がチェロでもヴィオラでもなく、オーボエと独奏ヴァイオリンに移っているのがこの変奏の特徴。 |
| 転覆と感謝の祈り | p.263–269 / [59]–[63] | 転調 | DQSP | p.267 で un poco accelerando、p.268 で poco calando。p.269 で Tempo I. と拍の等式 ♩ = ♩.。そして次頁の冒頭、フルートに religioso。 → 聴取:水を滴らせる pizzicato のあとの、木管の讃美歌風の一節(religioso)。舟が壊れて水に落ち、助かった二人が神に感謝する。この語がスコアに印刷されている数少ない性格語のひとつ。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 IX・突撃 | p.270 / [63]–[64]≈29:55 | ♭1 | DQ | Variation IX. Schnell und stürmisch.(速く、嵐のように)、4/4。弦が一斉に走り出す。途中で複縦線と拍の等式 ♩ = ♩ を挟んで 3/2 に変わる。 → 聴取:短くて激しい。1分ほどで終わる。 |
| 2本のファゴット | p.270 の末尾 / [65] | ♭1 | – | スコアの最下段が 2 Fag. の1段だけになり、2本のファゴットが伴奏なしで長く続く。 これ以上ないほど分かりやすい場面。大編成が突然2本のファゴットだけになる。ラバに乗った二人の僧が、騎士に叩き落とされて口ごもりながら去っていく——という読み方が一般的。楽器の数がそのまま情景になっている。 |
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 変奏 X・決闘 | p.271 / [66]≈30:59 | ♭1 | DQ | [66] Variation X. Viel breiter.(はるかに幅広く)。木管が一斉に上行し、ティンパニがトレモロで支える。[67]で Viel schneller. になり、大太鼓(gr. Trommel)が独立した段として加わる。トランペットは3本とも in F。 大太鼓が入るのはここが初めて。編成表には最初から載っているが、実際に鳴るのはこの決闘まで待たされる。打ち合いの重さがそこで一段増す。 |
| 敗北と帰路 | p.275–281 / [69]–[75] | 転調 | DQSP | [69]で beinahe doppelt so langsam.(ほとんど半分の速さで)と、molto espressivo。ここから独奏ヴィオラと独奏チェロが再び前に出て(p.280 に Solobratsche と Solo-Violonc. の段が並ぶ)、[74]–[75]では弦が全員弱音器を付ける。 負けた瞬間ではなく、負けたあとが長い。テンポがほぼ半分に落ちて、二人が黙って家へ帰る。決闘そのものより、この帰り道のほうに時間が使われている。 |
特異点
- 変奏 IX で編成が2本のファゴットに落ちる。6本のホルンと3本のトロンボーンを抱えた大編成の曲で、スコアの一段だけを使う箇所を作る。効果として派手ではないが、この曲の描写の徹底ぶりがいちばん端的に出る場所。
- 大太鼓の初登場が変奏 X。巻頭の編成表には grosse Trommel が載っているのに、独立した段として現れるのは決闘まで来ない。奏者は曲の4分の3を待つことになる。
- 敗北のあとにテンポが半分になる。beinahe doppelt so langsam という指示は、単なる減速ではなく時間の尺度そのものの切り替えを求めている。冒険の連続がここで終わり、以後この曲は別の速度で進む。
- この変奏で騎士を負かすのは、実は味方である。「白い月の騎士」の正体は、騎士を家に連れ戻すために変装した同郷の学士サンソン・カラスコ(セルバンテス後篇 第64–65章)。音楽は決闘を英雄的に書かず、勝ち負けがついたあとを長く引きずる。
フィナーレ — 正気に返って死ぬ
最後の調号変更=額縁の閉じ
ニ長調が戻る
回想
序奏より遅く
消える
※ 幅は練習番号の間隔に大まかに比例させた概略。
| 区分 | 位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
|---|---|---|---|---|
| ニ長調が戻る | p.282 / [76]–[77]≈35:31 | D dur | DQ | [76] のある段の終わりで複縦線が引かれ、調号がシャープ2つに変わる。次の段の頭に Finale. と Sehr ruhig.。独奏チェロが espr. で歌い出し、4本のホルンと3本のファゴットが pp で支える。 調号が変わる瞬間を聴く。ここがこの曲の最後の調号変更で、以後シャープ2つのまま終わる。狂気が解けたことが、標題ではなく調号で書かれている。 |
| 回想 | p.283 / [77]–[78] | D dur | DQSP | molto espr.、hervortretend, sehr gebunden.(際立たせて、きわめてレガートに)。弦が弱音器を付けたり外したりしながら、過去の主題が次々に短く顔を出す。 → 聴取:聴き覚えのある断片が通り過ぎる。ここまで追ってきた主題がどれか分かると、この場面の意味が変わる。 |
| 序奏より遅く | p.284–285 / [79]–[81] | D dur | ドゥルシネア | zurückhaltend、sehr ruhig、etwas drängend、agitato が入れ替わり、そのうえに (etwas langsamer als der Anfang der Introduction)——「序奏の冒頭よりやや遅く」と書かれる。[81]で immer ruhiger werden.。 スコアが序奏を名指しで参照する。速度の指示のかたちを借りて、いま鳴っているものが冒頭と対をなすと明示している。Weaver によればこの直前でドゥルシネアの主題が、伴奏なしの独奏チェロによって前半だけ、ニ長調で返される。 |
| 消える | p.286 / [82] | D dur | DQ | 最後の13小節。独奏チェロに allmählich immer mehr abnehmend(次第にますます弱まって)と書かれ、旋律は dim. から pp へ落ち、最後は点線のポルタメント線で下へ滑り落ちて休符になる。そのあと弦が pizz. で一点を弾き、管・ホルン・トランペット・トロンボーン・ティンパニ・シンバルが pp のニ長調和音をフェルマータで保って終わる。 最後に落ちていく音が、この曲の死。その滑り落ちはスコアに点線で書き込まれていて、奏者の解釈ではなく作曲者の指定。楽譜の末尾には Ende. と、右の余白に München den 29. December 1897. が刻まれている。 |
特異点
- フィナーレの調号変更が、この曲の最後の調号変更である。序奏はシャープ2つで始まり、主題以降はフラット1つを基本に動く。シャープ2つは変奏 II と変奏 III の冒頭にも現れるので「全曲でここだけ」ではないが、そこでは数十小節でまた離れてしまう。フィナーレでの回帰だけが終曲まで保たれ、そこが額縁の閉じになっている(終盤でハープだけが記譜上の調号を替えるが、これは同音異名のペダル処理で、曲の調号は動かない)。額縁のより強い根拠は調号ではなく、スコア自身が「序奏の冒頭よりやや遅く」と序奏を名指ししていること(下記)。
- スコアが序奏を名指しする。etwas langsamer als der Anfang der Introduction は、テンポ指示の体裁を取りながら、実質は「ここは冒頭と対だ」という作曲者の注記。挿話の標題を一切刷らなかった総譜が、形式上の対応関係だけは書き込んでいる。
- 最後の下降は指定されたポルタメント。独奏チェロの最終句は、2つの音符のあいだに点線が引かれ、スラーが掛かっている。この記法は指板の上を滑らせる奏法の指定で、「息を引き取る」と言われる効果は演奏者の思いつきではなく譜面の側にある。
- 作曲者は終わりを先に書いた。ケネディの伝える構想メモには「ドン・キホーテ、狂気から癒える。死と結末。震えに襲われ、死が近づく、最後の素早い戦い、持続低音で終わる」とある。実際の完成日が楽譜の末尾に München den 29. December 1897. として刻まれている。
- シュトラウス自身はこの曲をどう説明したか。ケネディによれば「ひとつの主題と、無に等しいものとの戦い」と述べ、変奏形式を「不条理なところまで押し進め、悲喜劇的な揶揄を浴びせた」と付け加えている。《英雄の生涯》とは対で構想されており、本人の言葉では「ドン・キホーテは英雄の生涯の傍らに置いてはじめて完全に理解できる」。
参考文献
- 底本:Richard Strauss, Don Quixote, Op. 35, Partitur. München: Jos. Aibl Verlag, 1898(版番 R.2885・94頁。Dover Publications, 1979 が復刻)。IMSLP #18787 — imslp.org/wiki/Don_Quixote,_Op.35_(Strauss,_Richard)
- Michael Kennedy, booklet note for Hyperion CDA67960(2013)— 成立過程・初演・主題の帰属・シュトラウス自身の言葉。hyperion-records.co.uk
- Anselm Cybinski, プログラムノート(Berliner Philharmoniker)— 変奏原理の解釈、標語一覧。berliner-philharmoniker.de
- Henry T. Finck, Richard Strauss: The Man and His Works(Boston: Little, Brown, 1917), pp.190–196 — 総譜に標題が印刷されていないこと、標題の出所、サンチョ主題の楽器、Walden の数えた53主題。archive.org
- Andrew H. Weaver, “Battling Romantic and Modernist Phantoms: Strauss’s Don Quixote and the Conflicting Demands of Musical Modernism,” Journal of Musicological Research 31/1(2012), pp.1–26 — ドゥルシネア主題の出現箇所と調(小節番号は同論文の数えによる)。DOI: 10.1080/01411896.2012.643703
- Germán Marcano, “Don Quijote op. 35 by Richard Strauss: history of a reception” — 初演前後の批評の集成。musicaenclave.com(署名・注釈付きだが自主公開のため、引用した批評は原典の年月日を併記した)
- Leonard Bernstein, “Fantastic Variations,” Young People’s Concerts(1968年12月25日放送)の台本 — 主題の6音と持続低音の説明。leonardbernstein.com
- Dan Foster, “Orchestral Training Forum: Preparation and Performance of Richard Strauss’ Don Quixote and Ein Heldenleben,” Journal of the American Viola Society 18/1(2002), p.19ff — 独奏ヴィオラのスコルダトゥーラを戻す位置、変奏 III のレチタティーヴォ/アリアの割り方。著者はナショナル交響楽団首席ヴィオラ奏者。americanviolasociety.org(PDF)
- Richard Strauss, Don Quixote op. 35 TrV 184, Urtext, hrsg. Nick Pfefferkorn(Wiesbaden: Breitkopf & Härtel, PB 5719・144頁)— 現行の原典版。本ガイドは未照合。breitkopf.com
- Miguel de Cervantes, Don Quixote(Ormsby 訳, Project Gutenberg #996)— 挿話の章番号の確認に使用。
- 未参照だが本来引くべき文献(正直に開示する):
- Graham H. Phipps, “The Logic of Tonality in Strauss’s Don Quixote: A Schoenbergian Evaluation,” 19th-Century Music 9/3(1986), pp.189–205(DOI: 10.2307/746526)——この作品の調性論理を正面から扱った専論。本ガイドの看板である調性スパインと、「嬰ヘ長調=最も遠い」「ニ長調の回帰=正気」という解釈は、この論文を読まずに調号の遠近から組み立てたものにすぎない。有料で入手できなかった。
- Norman Del Mar, Richard Strauss: A Critical Commentary on His Life and Works, vol. 1(London: Barrie & Rockliff, 1962)——小節単位で全曲を追った標準的な注解。archive.org の貸出制限で本文を読めなかった。変奏技法の記述を空白のままにしている理由がこれ。
- Walter Werbeck, Die Tondichtungen von Richard Strauss(1996)——上記のとおり Weaver の注を通した間接参照のみ。
第1版 | 初版 2026-09-04 | 最終改訂 2026-09-05