出典・底本
主な分析ソース:Griglio, G. (2021)「Wagner – Tannhäuser Overture Analysis」(指揮者ジャンマリーア・グリーリオの個人サイトのブログ記事・2021年3月25日、
gianmariagriglio.com)。
査読なしの二次資料で、リハーサルレターを用いた詳細分析は会員限定のため未アクセス——本ガイドは公開部分のみ参照する。補助:ボストン響・ヒューストン響・ニューメキシコ・フィルのプログラムノート、The Listeners' Club、The Orchestral Bassoon(冒頭16小節の和声)、英語版 Wikipedia「Tannhäuser (opera)」。
位置の準拠:テンポ記号と区分の性格で区切り、リハーサルレター A/B/C/F/M を併記する(小節番号なし)。この序曲を小節単位で通した信頼できる資料は見当たらないため、推測の小節番号は書かない。リハーサルレターの位置関係は orchestraexcerpts.com のトロンボーン抜粋(「[A] to 27 measures before [B]」「1 measure before [M] to end」)で補強。各レターの正確な区分対応には未確認の部分があり、その箇所は「付近」と記す。
底本(楽譜の版)は未確認。本ガイドは演奏会で演奏される
ドレスデン版(1845)を対象とする(パリ版との違いは下の特異点を参照)。内部の調域(ヴェーヌスベルク中間部の具体的な転調先)は出典で特定できないため、「半音階・転調」とだけ記す。
曲を貫く糸:巡礼の主題が冒頭と終結を「枠」のように囲み、その内側に半音階のヴェーヌスベルクが置かれる。ホ長調に始まりホ長調で閉じ、外枠(信仰)と中身(官能)の対比がそのままドラマになる。巡礼の合唱はオペラ全体の幕切れでも戻ってくる。
A 巡礼
Andante maestoso
B ヴェーヌスベルク
Allegro
A' 巡礼回帰
ゆっくり荘重に
終結
※ 弧線は区分の相対的な配置を示す概略(小節数の出典がないため目盛りは付けない)。
主要主題・動機(凡例)
区分テーブルの動機タグ(巡礼/悔恨/ヴェーヌスベルク/ヴェーヌス讃歌/ヴェーヌスの誘い)に対応する。これらは劇的観念に結びつく主題・動機で、のちのライトモティーフ体系の原型にあたる(1845年の時点で確立した体系ではない)。
巡礼の主題
E dur、Andante maestoso のコラール。クラリネット・バルブホルン・ファゴットが pp で奏する。冒頭と終結に現れ、序曲を額縁のように囲む(オペラ全体の幕切れでも戻る)。
悔恨の動機
不安定な半音階。チェロに始まりヴァイオリンへ受け渡される。前枠(移行)と回帰部に現れる。
ヴェーヌスベルク(動機群)
単一主題ではなく複数の断片の複合体。ヴィオラの pp 提示から半音階的に展開する。官能・誘惑を表す。
ヴェーヌス讃歌
行進曲風で明朗。劇中でタンホイザーがハープ伴奏でヴェーヌスに歌う主題と同一。ヴァイオリンと木管。
ヴェーヌスの誘い(愛の魔法)
独奏クラリネットが、8部に分かれた第1ヴァイオリンの上で molto espressivo に歌う、中心の誘惑的挿話。
| 区分 | テンポ・位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
| 巡礼の主題(提示) |
Andante maestoso 3/4・♩=50 |
E dur |
巡礼 |
クラリネット・バルブホルン・ファゴットが p で奏する荘重なコラール(賛歌)。Griglio によれば、ワーグナーは「引きずらず、歩く動きで(sehr gehalten)」と指示している。冒頭16小節は E dur が明確(The Orchestral Bassoon の和声分析)。 → 聴取:この旋律を覚える。終結で金管に戻ったとき、同じ主題だと気づけるかが聴きどころの軸。 |
| 悔恨の動機・高まり |
Andante 続き テンポ区分内 |
半音階 |
悔恨 |
チェロ、続いてヴァイオリンが「不確かな半音階」で奏する悔恨の動機(タンホイザーの後悔)。賛歌はやがて大きな奔流へと満ち、また遠ざかる——ワーグナー自身の1873年プログラム(巡礼の合唱が近づき・満ち・過ぎ去る)。 → 聴取:祈りが近づき・満ち・遠ざかる弧。音量の遠近を追う。 |
| 区分 | テンポ・位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
| バッカナール開始 |
Allegro [A]付近 「ごく弱く始め、後でクレッシェンド」(Wagner/Griglio) |
半音階 |
ヴェーヌスベルク |
ヴィオラが「生き生きと、力に満ちた」バッカナールの動機を announce する。響きの肌触りが、祈りからざわめく官能へ一変する。 → 聴取:荘重→官能の切り替わり。同じオーケストラの音色がどう変わるか。 |
ヴェーヌス讃歌 Adulation of Venus |
Tempo primo [B]付近 「急がない(Nicht eilen)」(Wagner/Griglio) |
半音階 |
ヴェーヌス讃歌 |
ヴァイオリンと木管が、行進曲風の旋律を奏する。これは劇中でタンホイザーがハープ伴奏でヴェーヌスに歌う「ヴェーヌス讃歌」の主題(ヒューストン響)。 → 聴取:官能のただ中に現れる「歌」。のちにタンホイザーが歌う旋律の先取り。 |
ヴェーヌスの誘い 中心の誘惑的挿話 |
poco ritenuto リハーサルレター C 付近 (Griglio) |
半音階(解決を先延ばす) |
ヴェーヌスの誘い |
独奏クラリネットが、8部に分かれた第1ヴァイオリンの上で molto espressivo に震える(ほかの弦は休む)。レター C 付近で2小節の進行が転調しながら反復し、別の転調進行へ変わっていく(Griglio)。 → 聴取:和音が落ち着き先をなかなか見つけず漂う「宙づり」。同じ時期の《トリスタン》の半音階に通じる。 |
| ヴェーヌスベルクの頂点 |
Allegro(fff) リハーサルレター F (Griglio) |
半音階 |
ヴェーヌスベルク |
トライアングル・タンバリン・シンバル、そしてティンパニとシンバルのトリルが加わる絶頂。Griglio はここ(レター F)を「ドレスデン版とパリ版が分かれる点」とする。 → 聴取:打楽器が鳴るのはこの頂点だけ。官能が最高潮に達する瞬間。 |
| 区分 | テンポ・位置 | 調 | 主題 | 内容・性格・聴取ポイント |
| 巡礼の主題・回帰 |
「ゆっくり、荘重に」 [M]付近 orchestraexcerpts: 1 measure before [M] to end |
E dur |
巡礼 + 弦の走句 |
巡礼の賛歌がクラリネット・バルブホルン・ファゴットに戻り、ティンパニのトリルとヴィオラ・チェロの長音に支えられる。その上でヴァイオリンが細かく駆ける走句(topical figure)を奏する。差異:冒頭の静かな祈りに対し、ここは輝かしい勝利として戻る——同じ主題、別の光。 → 聴取:巡礼の主題(管・金管)+ヴァイオリンの走句が同時に鳴る、この序曲の白眉。冒頭と必ず聴き比べる。 |
| 終結 |
輝かしく(演奏会用 close) |
E dur |
巡礼(トロンボーン) |
全管弦楽。最後はトロンボーンが荘厳な巡礼のコラールを担い、ドレスデン版の演奏会用の結尾として堂々と閉じる(The Listeners' Club)。 → 聴取:信仰が官能に勝って終わる。外枠が中身を包み込んで閉じる感覚。 |
提示(前枠)↔ 回帰(後枠)の対比
提示(冒頭 Andante maestoso)
E dur・
pp。木管+ホルン中心(クラリネット・バルブホルン・ファゴット)。巡礼の主題は遠方から近づき、満ちて、過ぎ去る(ワーグナー1873年プログラム)。悔恨の動機は不安定な半音階。
回帰([M]付近〜終結)
E dur・
ff。全管弦楽(ティンパニのトリル、ヴィオラ・チェロの長音、ヴァイオリンの走句、終結はトロンボーン)。巡礼の主題は留まり、増幅し、勝利として終結する。悔恨の動機は再現ののちコラールに呑み込まれる。
対立の軸は調性ではない。序曲全体が E 長調に留まり、ソナタ形式の V→I 解決は働かない。対比はダイナミクス・音色・編成——同じ巡礼の主題が「pp の祈り」から「ff の凱旋」へ変容することで、信仰の勝利が示される。
形式上の特異点
- ABAの枠=信仰の勝利というドラマ。冒頭で近づき満ち遠ざかる巡礼の合唱が、官能のヴェーヌスベルクを挟み、終結で勝利して戻る(ワーグナー自身の1873年プログラム)。序曲は「それ自体で完結した音楽作品」としてオペラの主題を織り込む(ワーグナー1841年「序曲について」、BSO)。オペラを閉じる主題で開幕し同じ主題で閉じる点はモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲と似るが、モーツァルトが主調の確認で形式的に閉じるのに対し、ワーグナーは pp→ff のダイナミクスの変容でドラマ的に閉じる、と読める。
- 頂点での同時進行。回帰では巡礼のコラール(管・金管)とヴァイオリンの細かい走句が、ティンパニのトリルの上で同時に鳴る——この序曲の署名的な響き。
- ドレスデン版 vs パリ版。分岐点はヴェーヌスベルクの fff の頂点(Griglio: レター F)。ドレスデン版は巡礼の合唱を再現して演奏会用に閉じる。パリ版はここから休みなくバッカナール(第1場)へ流れ込み、この勝利の結尾を持たない(Wikipedia)。今回演奏されるのはドレスデン版。
- 編成上の特異点。中心の誘惑的挿話で第1ヴァイオリンを8部に分け、独奏クラリネットを乗せる。打楽器(トライアングル・タンバリン・シンバル)はヴェーヌスベルクの頂点だけに現れる。
- ワーグナー自身の迷い。上演では序曲を巡礼の合唱だけに切り詰める方が良いかもしれないと述べたと伝わる(「残りは、劇への前奏としては多すぎ、逆なら少なすぎる」、Wikipedia)。
別レンズ:ソナタ形式として読むと
読める一次的な分析は、この序曲を
三部形式(ABA)として扱う。「ソナタ形式」と読むのは分析者のレンズであって、ワーグナーがそう設計したのではない。Griglio は提示部・展開部・再現部の対応を analogy として挙げつつ、「ソナタ形式とは明示しない」とわざわざ断っている。その語彙で読むと、こう見える:
提示部にあたる
巡礼の合唱(E dur)。主題の「提示」。
展開部にあたる
ヴェーヌスベルク(半音階・転調)。緊張と逸脱。
再現部にあたる
巡礼の合唱回帰(E dur)。主題の「帰還」。
ブラームス交響曲第4番第1楽章のような厳密なソナタ形式と並べると、外枠の似かたと、中身の違い(厳密な主題労作 vs 官能の挿話)が見えてくる。なお「中間部に完全なソナタ形式がある」という説も流通するが、読める一次的分析では確認できなかった。確立した事実としては扱わない。