ヴァンスカ×都響——シベリウス交響曲第1番・第4番を聴いて
ヴァンスカを聴くのは、調べてみると去年(2025年3月)の東京交響楽団の定期以来でした。あの時はニールセンの《ヘリオス》、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、プロコフィエフの交響曲第5番というプログラム。そして今回は都響でシベリウス。指揮台に立つヴァンスカの姿を見て、改めてスッとした立ち姿が印象的だと感じました。73歳。インバルをはじめ80代後半から90代の指揮者が現役で活躍する時代にあって、70代はまだ「若手」なのかもしれません。エネルギッシュな指揮ぶりは、年齢を忘れさせるものでした。
ヴァンスカと聞いて思い浮かぶのは「知的」「透明感」「構造的」といったキーワードです。しかしこの夜の印象は、それだけでは収まりきらないものでした。
この公演の予習ノートはこちら。
公演情報
- 公演名: 都響スペシャル
- 日時: 2026年3月27日(金)19:00 開演
- 会場: サントリーホール
- 指揮: オスモ・ヴァンスカ (Osmo Vänskä)
- 管弦楽: 東京都交響楽団 (Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra)
- 座席: LB席
曲目
- ジャン・シベリウス:交響曲第1番 ホ短調 op.39(1899年)
- ジャン・シベリウス:交響曲第4番 イ短調 op.63(1911年)
※ 同一プログラムが3月26日(木)に東京芸術劇場コンサートホールでも演奏されました(第1041回定期演奏会Cシリーズ)。
交響曲第1番——エネルギッシュで雄大、チャイコフスキーの影
予習ノートでは「チャイコフスキーやボロディンの影響を色濃く残す」と書きましたが、実際に生で聴いてみて、なるほどこの曲は確かにチャイコフスキーを感じさせるな、というのがまず最初の印象でした。後期のいわゆる「シベリウスらしい」音楽——削ぎ落とされた、透明な響き——に、チャイコフスキー的な情感あふれる節回しを足したものが、この交響曲第1番なのかもしれません。
ヴァンスカの演奏は、「知的」「透明」というイメージ以前に、とにかくエネルギッシュでした。スケールが大きく、オーケストラがよく鳴る。とても忠実で、真っ直ぐな演奏だったと感じます。
朧げな記憶の中にあるヴァンスカ=ラハティやヴァンスカ=ミネソタの映像と比べて、今回とりわけ強く印象づけられたのは音楽の「広がり」でした。第1番についてはまさに「スケール」という言葉がふさわしい。もっとも、過去の記憶そのものが完全に風化してしまっているので、実際に並べて聴けば全く違った印象を受ける可能性は十分にあります。ただ、それくらい広がりとスケールを感じた演奏だった、ということです。オーケストラの違いもあるのでしょうし、ヴァンスカ自身の成熟もあるのでしょう。
なんといっても触れないわけにいかないのは、冒頭のクラリネット独奏です。予習ノートで「都響の首席クラリネットの音色がこの夜の第一印象を決めます」と書きましたが、まさにその通りでした。音色、ニュアンスともにとても説得力のある演奏で、ティンパニのトレモロの上に孤独に響くクラリネットの一音目から、ホール全体に良い意味の緊張感が生まれていたと思います。聴衆も耳を奪われ、集中して聴いていた——そういう空気を感じることができ、安心して音楽に身を委ねることができました。
交響曲第4番——このコンサートの白眉
第1番も良い演奏でしたが、やはりこのコンサートの白眉は第4番だったと感じています。
ふわっと、波が次から次へと重なっていくような広がり。透明感。ヴァンスカとラハティ交響楽団の——もう「彼方の記憶」としか言いようのない——あの音が、目の前に蘇ったような感覚がありました。予習ノートで書いた「たゆたう水の揺らぎのような透明感の中に、何とも言えない静かで不思議な、しかし心にしみるような情感」——あの記憶の中の音に、再び出会えた気がしたのです。
決して派手な音楽ではありません。しかし音の一つひとつに細やかなニュアンスがあり、微妙な押し引き——道引きと言った方がよいかもしれません——があって、じわーっと心に訴えかけてくる。音と心象風景が一体になるような体験でした。
第4番の中でとりわけ心に残ったのは、チェロのソロでした。第1番冒頭のクラリネット独奏の素晴らしさにも負けず劣らずの説得力があり、心に沁みるようなソロだったと思います。前半のクラリネットと後半のチェロ——この夜は独奏の場面がいずれも深い印象を残しました。
第1番で感じた「スケールの大きさ」と、第4番で感じた「広がり」は質が異なります。第4番の曲想からして、「スケール」つまり「雄大さ」という言い方はそぐわない。境界がなく深みがある、静的なのだけれどもその中で大きく、深い——そういう感覚です。雄大というよりも、底の見えない湖を覗き込むような広がり。これもまた、オーケストラの違いとヴァンスカの成熟の両方がもたらしたものなのでしょう。
予習ノートで「録音で聴くとやや退屈に感じてしまう」と正直に書きましたが、実演はまったく別の体験でした。音がふわー、じわーっと空間に広がっていく感覚、各パートの掛け合いが目の前で見える感覚。切り詰められた、言ってみればミニマルな音の並びの中でも、豊かな表現がなされていることが実演ではよく伝わってきます。いくつかの楽章が静かに終わるところも、録音では何となく過ぎてしまいますが、実演だからこそ聴衆全体の緊張感と一体感の中で聴くことができ、音が消えていく瞬間の意味が変わってくるのだと思います。
ヴァンスカと都響
ヴァンスカの指揮は、LB席から見ていて、かなり細かく指示がなされていたように感じました。一つひとつのフレーズに対して、明確な意図が棒に乗っている印象です。
演奏が終わった時の表情や仕草を見ていると、ヴァンスカ自身は今日の演奏に非常に満足していたのではないでしょうか。オーケストラの側も、演奏後の仕草から察するに、ヴァンスカにとても敬意を払っていたように見えました。
もちろん、今回は現代最高のシベリウス指揮者と言ってよいヴァンスカが、まさにそのシベリウスを振るという「お箱」の公演です。指揮者の権威とレパートリーの一致が、聴き手に対しても、おそらくオーケストラに対しても、演奏に説得力を与えやすいコンテクストだったという点は否めません。今後、シベリウス以外の曲を都響と演奏したときに、どのようなケミストリーが生まれるのか——それはまた別の興味深い問いです。
ただ、その前に。2023年10月の後期3曲(第5番・第6番・第7番)、そして今回の第1番・第4番で、シベリウス交響曲7曲のうち5曲が都響×ヴァンスカで演奏されたことになります。残るは第2番と第3番。このシリーズが来年あるいは再来年に完結する公演が企画されることを、強く願っています。
オーケストラ——自律的なアンサンブル
LB席からは弦楽器セクションのボーイングがよく見えましたが、その一糸乱れぬ揃い方がとても美しいものでした。ただし「一糸乱れぬ」という言葉は、ともすると上から統制された軍隊的な揃い方を連想させてしまうかもしれません。実際に見ていて感じたのは、そういう統制とは違うものでした。奏者一人ひとりが自発的に周囲の音を聴きながら弾いた結果として、それが揃っている。押し付けられたアンサンブルではなく、自律的なアンサンブルだと感じました。
冒頭で触れたクラリネットに限らず、木管セクション全体が素晴らしかったと思います。フルート、オーボエ、ファゴット、いずれも美しい音を聴かせてくれました。特にオーボエは、第4番の中でかなり速いテンポのパッセージがあり、ギリギリのペースだったのではないかと思いますが、よくついていっていたと感じます。
金管セクションについて正直に書くと、都響に限らず日本のオーケストラでは、弦・木管・打楽器に比べて、このセクションにやや不満を覚えることが少なくありません。比較対象として耳に刷り込まれているのが、ながらく定期会員をしていたNew York Philharmonicの演奏だからというのもあるかもしれませんが・・・。
しかし今回はホルンの柔らかく馥郁とした音色、トランペットやトロンボーンの力強い響きともに、満足のいくものだったと思います。
あえて高望みをするならば、静かなフレーズの出だしがもう少しまろやかに、かつ全員で息を揃えて出ることができたら、もう一段上の印象を受けたかもしれません。
コンサートマスターは矢部さんで、山本さんも隣に座っていました。定期演奏会CとTOKYO SPECIALという2つの異なる公演を同一プログラムで行うにあたって二人体制にしたのか、あるいはヴァンスカとの共同作業の経験や接点を広げる意図があったのか——などと、つい邪推してしまいます。
次への期待
6月にはヴァンスカが東京交響楽団の定期演奏会(6月13日、サントリーホール)に登場し、ベートーヴェンの交響曲第8番とラフマニノフの交響曲第2番を指揮します。シベリウスとはまったく異なるレパートリーで、しかもオーケストラも変わる。ヴァンスカがどのような演奏を聴かせてくれるのか、非常に楽しみです。
なお、都響について——いま日本で一番推したいオーケストラとして感じていることは、別の記事にまとめたいと思います。