いま日本で一番気になるオーケストラ——都響のアイデンティティと新たな挑戦

3月だけで、都響の主催公演を5つ聴きました。4日の定期演奏会A、8日のプロムナードコンサート、19日の定期演奏会B、26日の定期演奏会C、そして27日の都響スペシャル。調布シリーズを除けば、今月の主催公演すべてです。1月・2月にも何度か足を運んでいたので、この数ヶ月はかなりの頻度で都響を聴いてきたことになります。

集中して一つのオーケストラを聴くことで、個々の公演の良し悪しとは別の次元で、見えてくるものがあります。そのことについて、少し書いてみたいと思いました。

先日のヴァンスカ指揮シベリウス交響曲第1番・第4番のレビューはこちら


多様な指揮者の下で、毎回高い水準の演奏を聴かせる

この数ヶ月で接した都響の演奏を振り返ると、指揮台に立った顔ぶれは実に多彩でした。ルスティオーニのように情感豊かに歌わせる指揮者。インバルの巨匠的な重厚さ。大野音楽監督のスタイリッシュで手堅く隙のない音楽作り。そしてインキネンや、ヴァンスカのように、少しカッチリとした、知的で透明感のある音を志向する指揮者。

アプローチが全く異なる指揮者たちの下で、都響はそのたびに、それぞれ非常に高いレベルで、説得力のある演奏をしていたと感じます。

プロなら当たり前、というのは簡単ですが、これは二つの理由で実はすごいことだと思います。

一つは、一人の優れた指揮者の下で素晴らしい演奏をすることと、まったく異なるスタイルの指揮者が次々に来ても、そのたびに高い水準の演奏を実現することは、別の能力であるということ。これにはオーケストラ自体の基礎体力——技術はもちろん、音楽的な感度や柔軟性がとわれます。

そしてもう一つは、オーケストラの色と指揮者の解釈が、互いにぶつかり合うのではなく、むしろ互いを高め合う関係にあるということです。優れたオーケストラであればあるほど、オーケストラの伝統や、固有の演奏スタイルが育まれ、その個性が強くなります。こうした個性は、そのオーケストラの魅力でもあるわけですが、同時にその個性と指揮者のスタイルが異なる時には、演奏が噛み合わないこともあるでしょう。

しかし、都響の演奏ではこうしたばらつきがとても小さいと感じられるのです。これは、もしかすると招聘する指揮者の剪定眼が鋭いということもあるのかもしれませんが、それ以上に、都響自体の特性が、どのような指揮者であっても一定水準以上の演奏を可能にしているのではないか、とも感じています。


都響のアイデンティティとは何か

こう書くと、「都響には固有の個性がないのでは?」という問いが生まれるかもしれません。確かに、都響には「俺たちの音はこれだ」と主張するような、伝統に根ざした強烈な個性——たとえばウィーン・フィルのあの甘い弦の響きや、ベルリン・フィルの鋼のような輝き——があるわけではないように思えます。

しかし、何度も聴いていると、都響の演奏にはどの指揮者の下でも共通する美点があることに気づきます。スタイリッシュであること。都会的で、精緻なアンサンブル。フレーズのキレの良さ。そして響きの透明さ。

これらの美点を一貫して保ちながら、様々なスタイルの音楽、様々な要求を持つ指揮者に対して、それを高いレベルで実現してみせるところ——これこそが都響のアイデンティティなのではないかと感じるようになりました。没個性なのではなく、「どんな色にも染まれる高い基礎体力と美意識」という形の個性。それは地味に聞こえるかもしれませんが、実現するのは容易なことではないはずです。

つい最近、ソロ・コンサートマスターの矢部さんのスピーチをお伺いする機会がありました。その中で、「音楽の伝統を受け継ぎ、伝えていく使命がある。これからも都響はさらなる高みを目指して切磋琢磨していく。」という趣旨のお話がありました。この言葉は、まさに都響のアイデンティティを言い表しているように感じられます。

こうした都響の特質は、ドイツのトップクラスの放送オーケストラ——たとえばバイエルン放送交響楽団やNDRエルプフィルハーモニー——や、ロンドン交響楽団などに通じるものがあるように感じます。高い技術的基盤を持ち、どのような指揮者が来ても柔軟に対応しながら、しかしオーケストラとしての質は一貫して高い。

面白いのは、「放送オーケストラ」という括りで言えば、日本ではNHK交響楽団こそがその位置にあるはずだということです。しかしN響は、「日本を代表するオーケストラ」という自負と、長い歴史が醸し出す重みを背負っており、その立ち位置は都響とは異なります。放送オケ的な柔軟さよりも、伝統と代表性の重さの方が前面に出ている。同じ日本のオーケストラでも、こうした立ち位置の違いがあるというのは興味深いことです。


「オーケストラを聴きに行く」という視点

ここで少し視点を変えてみたいと思います。

指揮者は音を出しません。音を出すのはオーケストラです。ところが、コンサートの感想を語るとき、私たちはつい指揮者の解釈や指揮者の表現に焦点を当ててしまいがちです。「今日の○○(指揮者名)は良かった」「△△の解釈が面白かった」——こうした語り方が自然に出てくる。

もちろんそれは間違いではありません。指揮者の存在が演奏の方向性を大きく左右することは確かです。しかし、都響を継続的に聴いていると、もう一つの視点が自然に芽生えてきます。それは、「オーケストラを聴きに行っている」という感覚です。指揮者は、そのオーケストラの演奏に味付けをし、新しい側面を引き出してくれるゲスト。主語はあくまでオーケストラ。

この視点で聴くと、毎回の公演が、都響というオーケストラの多面的な魅力を少しずつ見せてくれる連続した体験になります。ルスティオーニが来れば、都響の弦楽セクションの歌心が前面に出る。ヴァンスカが来れば、アンサンブルの精密さと透明感が際立つ。同じオーケストラの、異なる顔。それを見に行く楽しみ。


4月からのポートフォリオ体制——大胆な試み

さて、都響は4月から、指揮者との関係において新たな体制に移行します。「ポートフォリオ体制」とでも呼ぶべきもので、大野和士、アラン・ギルバート、エリアフ・インバル、ペッカ・クーシスト、ダニエル・ルスティオーニという複数の指揮者が、様々なタイトルを分かち合いながら、それぞれの形で都響と関係を持っていく体制です。

この顔ぶれを眺めてみると、大野、ギルバート、インバルの3人は、いわばオーケストラの世界における「正統派」の大物指揮者です。一方、クーシストとルスティオーニの2人は、かなり毛色が異なります。クーシストはヴァイオリニストとしても第一線で活躍する音楽家であり、ルスティオーニはイタリアの若い世代を代表する、情熱的でカリスマ性のある指揮者です。この5人の組み合わせ自体が、すでに興味深い。

オーケストラと指揮者の関係——2つの極

世界のオーケストラを見渡すと、指揮者との関係のあり方には大きく分けて2つの極があるように思えます。

一つは「ベルリン・フィル型」とでも呼べるもの。首席指揮者・芸術監督がどっしりと座り、その色がオーケストラに深く染み込んでいく。カラヤン時代のベルリン・フィル、アバド時代のベルリン・フィル、ラトル時代のベルリン・フィル、そして現在のペトレンコ時代——指揮者の交代とともにオーケストラの音色や方向性も変わっていきます。もちろん実力ある客演指揮者も多く登場しますが、核にいるのは常に一人の指揮者であり、その人物の音楽観がオーケストラの根幹を形作っていく。

日本のオーケストラの中でこのモデルの最も良い例は、ジョナサン・ノットと東京交響楽団の組み合わせではないでしょうか。単に音楽監督がいてある程度の数の公演を指揮するというだけではなく、10年あるいはそれ以上にわたって、ビジョンを持ってシーズンを積み重ねていく。この継続性と一貫性こそが、音楽監督型の本質だと思います。語弊を恐れずに言えば、東京交響楽団は他の日本のトップオーケストラほどオーケストラ側の「我」が強くなく、優秀な音楽監督がいるときにその色に素早く染まり、一緒に高みを目指していけるポジションにあるという利点もあるのかもしれません。

もう一つは「ウィーン・フィル型」。首席指揮者や音楽監督を置かず、いわば客演指揮者のコレクションでシーズンを組み立てていく。もちろん実際には、ティーレマンやムーティのように関係の深い大物指揮者が常に何人かいて、核になっています。しかし根本的な違いは、音楽的なスタイルはオーケストラ自身が持っているという点です。外から来る指揮者は、オーケストラに「色を塗る」のではなく、オーケストラが進化するための「外的な刺激」として迎えられる。

この2つが、いわばスペクトラムの両端にある。

都響の「第三の道」

都響がこれからやろうとしていることは、このどちらでもないように見えます。ベルリン型のように一人の指揮者の色に染まるわけではない。かといってウィーン・フィルのように、オーケストラ自身が200年の歴史に裏打ちされた揺るぎないスタイルを持っているかというと、それも違う。5人の指揮者それぞれとの関係を並行して深めながら、多彩な表現力を磨いていくという、いわば「第三の道」です。

良いとこ取りを狙ったアプローチは、ともすると「二兎を追う者は一兎をも得ず」になりかねません。一人の指揮者と深く付き合うことで得られる音楽的な深化も、長い伝統の中で培われたオーケストラ固有のスタイルの強靭さも、どちらも中途半端に終わるリスクは否定できない。こうしたアプローチが必ずしもうまくいくとは限らないでしょう。

なぜ都響ならうまくいく可能性があるか

しかし、この数ヶ月間に都響の演奏を聴き続けてきた経験から感じるのは、このオーケストラにはポートフォリオ体制を機能させうる素地があるのではないか、ということです。

先に述べた都響の特質——異なるスタイルの指揮者に対して柔軟に対応できる力。都会的で精緻なアンサンブルという、指揮者が誰であっても揺らがない美意識。プログラミングや演奏に対する、組織としての強い信念。そして何より、非常に真摯に音楽に取り組み、常に高みを目指そうとする姿勢。

こうした特質を持つオーケストラであれば、5人の指揮者それぞれから異なる刺激を受けることが、散漫さではなく多角的な成長につながる可能性があるのではないでしょうか。ポートフォリオ体制のデメリットよりもメリットの方が大きくなる——そういう未来も十分にあり得ると感じています。

第一感はネガティブだったが

率直にいえば、最初にこのポートフォリオ体制のアナウンスを聞いたとき、第一感はやや否定的なものでした。一人の指揮者との深い関係がなくなることへの不安。方向性が分散するのではないかという懸念。また、大物指揮者を監督として確保できず、才能豊富でも指揮者としてのキャリアはまだ短いクーシストを首席指揮者に起用したことで、他の指揮者でまわりをしっかりと固めざるを得なくなったのではないか、といった見方もできました。

しかし、最近の演奏を聴きながら改めて考える中で、これは非常に大胆な試みではあるけれども、挑戦する価値のある試みだと感じるようになりました。実際のところ、世界のどこにも前例がない——少なくとも、この規模と質のオーケストラでは——実験的な体制です。だからこそ面白いとも言える。結果がどう出るかは、これから数シーズンをかけて見えてくるのだと思います。

また、オケのあるバイオリン奏者の方が、「クーシストのバイオリンは最初の一音から響きが違う。彼と一緒にやれることにとてもわくわくしている。」と語っていたのも印象的でした。


空席の残念さ——そして複数公演への期待

一つ、残念だったことについても触れておきたいと思います。

3月27日のヴァンスカ×シベリウスの公演は、あれだけ素晴らしいプログラムだったにもかかわらず、空席がかなり目立ちました。シベリウスの交響曲第1番と第4番という、やや渋めの選曲だったこともあるでしょう。また、前日の26日(定期演奏会C)と27日(都響スペシャル)で同一プログラムを2日連続で行うという日程も、集客的にはハードルだったのかもしれません。

N響は大抵のプログラムで2日間の公演を埋めることができています。海外のオーケストラに目を向ければ、1つのプログラムで3公演を行うことはザラですし、演目によっては4公演行うケースもあります。それでも客席はおおむね埋まっている。

都響がコンスタントに、一つのプログラムで2公演を行い、その両方の客席がしっかり埋まるようになれば、見えてくる景色はかなり違ってくるのではないでしょうか。客演指揮者にとっても、リハーサル・ゲネプロに加えて本番が2回あるのと1回しかないのとでは、オーケストラとの相互理解の深まり方が違ってくるはずです。2回の本番があれば、初日を踏まえて2日目により踏み込んだ表現ができる。指揮者の側からしても、本番が複数回あるオーケストラの方が招聘を受けやすいという事情もあるかもしれません。


いま一番気になるオーケストラ

いま、日本のオーケストラの中で一番気になっているのは都響です。

演奏の質、プログラミングの充実度、そしてこれから始まるポートフォリオ体制という大胆な実験。聴くたびに新しい発見があり、聴くたびにもっと聴きたくなる。この都響の良さを、できるだけ多くの人に伝えていきたいと思っています。